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Ch2.空に最も近い場所

城壁の外では、もうすっかり夜が明けていた。


ジェフリーは再び石台へ腰を下ろした。背後では、あの栗毛の馬が鼻を鳴らし、尾を振り、不満そうに地面を蹴っている。彼は気にも留めなかった。両肘を曲げた膝へ置き、指を組み、顔を伏せている。琥珀色の瞳の奥では、何かがゆっくりと沈んでいくようだった。あの小石は、いつの間にか指のあいだへ移されている。


無意識に握り込まれ、角が掌へ食い込み、薄い跡を残していた。


一晩中、待った。けれど。塔の上には、一度も人影が現れなかった。

もう立って。ここを離れるべきだった。理性では。はっきり分かっている。見知らぬ街の城壁の下で。流浪の騎士が一晩中座り込み。ほんの数言交わしただけの。名前も知らない女を待つ。口に出してみれば。冗談みたいに馬鹿げている。それでも。彼は立たなかった。ただ座っている。眉間の皺が。


深くなって。また浅くなる。何かの考えが。その奥で何度もぶつかり合っているのに。


どうしても。


答えを出せないように。城壁の隙間から。風が吹き抜ける。彼のこめかみの髪を揺らし。街の炊煙と。朝露に濡れた草の匂いを。混ぜて運んでくる。ジェフリーは。目を閉じた。暗い瞼の裏。昨夜。高い城壁の上から。身を乗り出した影を思い出す。あの声。あの目。自分を。

ただの身分でも。肩書きでもなく。一人の『人間』として見た。


あの目。その目の持ち主が。今。どこにいるのか。どうしているのか。



何も知らない。顔さえ。ろくに見えていない。それなのに。彼の指は。小石を。さらに強く。握り込んだ。________________________________翌朝。アンナはもう。窓辺へ座っていた。窓の外を見ている。無表情。


ほとんど。一晩中眠っていない。今夜。ジーロング王子が。正式に求婚へ来る。自分は。ここへ座って。


運命が来るのを。待つだけ。窓の外を飛ぶ小鳥が。羨ましくさえなった。今のあの鳥たちなら。好きなところへ。飛んでいける。


アディーが。扉をそっと叩いた。でも。アンナは答えない。聞こえないふりをしているのか。本当に。聞こえていないのか。分からないほど。朝の光が。窓の隙間から。細く入り込む。床の上へ。淡い金色の線を引く。その線は。アンナの裙の裾まで伸びて。そこで。静かに止まった。彼女は。窓辺へ座っている。昨夜受けた鞭の傷のせいで。背中を。椅子へ完全には預けられない。身体を。少し浮かせるように。座っている。見た目だけなら。姿勢は整っている。でも。


実際には。痛みによって。無理やり。

その姿勢へ縫いつけられているだけ。両手は。膝の上。組まれてもいない。


ただ。

開いたまま。置かれている。拳を握る力すら。もう。使いたくないように。窓の外。空は。薄い磁器のような青。


何羽かの雀が。軒先を横切る。翼を広げ。もっと広い空へ。消えていく。アンナの瞳は。その影を。ずっと追う。何も見えなくなってから。ようやく。ゆっくり。視線を戻す。自分の掌へ。何を考えているのか。自分でも。もう分からない。あるいは。考えられることを。全部。最後まで考えてしまったから。もう。


何も考えたくないだけ。今夜。求婚。その四文字が。胸の上に置かれた。


大きな石板のようだった。熱くもない。痛くもない。ただ。重い。呼吸するにも。意識して。力を入れなければならないほど。

アディーが。もう一度。扉を叩く。葉が一枚。静かな水へ落ちるような。小さな音。大きな波紋さえ。起こさない。アンナには。


聞こえている。もちろん。聞こえている。一晩中。眠っていない。今は。窓の外。木の先で鳴る。



小さな音まで。はっきり聞こえる。


でも。返事をしない。怒っているからではない。一度。口を開いてみた。でも。何一つ。言いたい言葉がないことに。気づいた。だから。また。閉じた。扉の隙間から。小さな声。「お嬢様……アディーです」沈黙は。続く。アディーは。扉の外で。少し待つ。それから。


もう二度。そっと。叩いた。


最初より。もっと。小さく。何かを。壊してしまうのが。怖いように。アンナの視線は。窓の外から。動かない。ただ。目尻が。ほんの少し。動く。睫毛が落ちる。本人さえ気づいていない。深い。深い疲労を。覆い隠すように。________________________________城壁の外。ジェフリーが。ようやく動いた。立ち上がる。


外套についた埃を払う。


石台のそばに置いていた剣を拾い。


腰へ。もう一度。吊るす。いつも通り。落ち着いた動き。旅立つ朝と。何も変わらない。栗毛の馬へ歩く。手綱を外す。長い指を。馬の首へ。一度。置く。馬が鼻を鳴らす。顔を寄せ。彼の手の甲へ。軽く擦りつける。


でも。すぐには。


馬へ乗らない。手綱を握ったまま。立っている。老いた槐の木の上を見る。葉が。朝風に揺れている。斑になった光が。彼の顔へ落ちる。


額に残る。古い傷のそばへ。揺れる影。琥珀色の目は。半分。細められている。自分自身へ。何か言っているように。あるいは。何かを聞いているように。でも。何も聞こえない。風だけ。城壁の向こう側で。何が起きているのか。何一つ教えてくれない。


沈黙だけ。彼は。横を向く。最後にもう一度。


あの塔の上を見る。空っぽ。喉仏が。一度。動く。そして。一晩中。掌へ握っていた小石を。


ゆっくり。外套の胸元。隠し袋へ入れる。心臓に。いちばん近い場所。この動きが。何を意味するのか。考えなかった。あるいは。考えた。でも。認めなかった。馬へ乗る。蹄の音。石畳へ。一つ。また一つ。城門へ向かって。ゆっくり。進む。そして。城門まで。


あと十歩。


そこで。

止まった。ジェフリーは。


馬上に座ったまま。ゆっくり開閉する城門を見る。動かない。朝風が。外套の端を。



持ち上げる。眉間には。深い皺。分かれ道へ。もう足を出しているのに。心だけ。まだ。元の場所へ。


縫いつけられている。そんな顔。目を閉じる。深く。息を吸う。ゆっくり。吐く。

蹄の音が。再び。響く。ただし。今度は。方向が違った。馬首を返す。


老槐の木へ。戻る。もう一度。手綱を結ぶ。そして。石台へ座り直す。顔を伏せる。両手を。膝へ。口元に。自嘲するような。小さな弧。


ほとんど。音のない笑い。自分でも。馬鹿げていると思う。それでも。立ち上がる気は。少しもなかった。胸の隠し袋。小石の重さ。軽すぎて。ほとんど。感じない。なのに。どこへも。行けない。もう少しだけ。彼は。自分へ言う。ただ。もう少しだけ。アンナの睫毛が。ほんの少し動いた。


まだ。生きている。それだけを。知らせるように。そう。生きている。


でも。死んでいるのと。ほとんど。変わらない。突然。立ち上がった。机へ行く。鋭いペーパーナイフを。取り出す。もういい。死ねばいい。どうせ。駒として扱われる人生なんて。死んでいるのと。大して変わらない。


でも。この部屋ではだめ。すぐに。見つかる。助けられる。だから。


決めた。塔へ行く。あそこなら。もっと。空に近い。

ペーパーナイフは。掌の上。細く。冷たい。朝の光が。刃の表面を滑る。細い。白い光。アンナは。それを見る。手は。震えていない。それが。いちばん。怖い。


あまりにも。静か。もう。すべての勘定を。終えてしまった人みたいに。最後の恐怖さえ。燃やす気がない。ペーパーナイフを。袖へ。隠す。そして。長いあいだ暮らした部屋を。振り返る。寝台の帳。


本棚。窓辺。昨日。

アディーが替えた。新しい野花。鏡台の上。銅鏡。


そこには。顔色の悪い。目の下を青くした少女。昨夜。慌てて着替えた。古い服。背中の傷は。まだ。完全には。塞がっていない。鏡の中の人間を。一秒だけ見る。そして。背を向ける。二度目は。見ない。扉の外。アディーは。三度目。手を上げていた。もう一度。


叩こうとする。でも。その前に。部屋の中から。足音。扉へ来る音ではない。


遠ざかる。それから。別の扉が。小さく。開いて。閉じる。内廊へ繋がる。側扉。



アディーは。


一瞬。固まった。胸の奥へ。何かが。沈む。


何が。おかしいのか。うまく言えない。ただ。『何かがおかしい』細い針のような感覚が。音もなく。心臓へ刺さる。迷ったのは。一呼吸にも。満たない。扉を開ける。部屋には。誰もいない。机の上。いつも。


ペーパーナイフを置いている台。空。アディーの顔から。一瞬で。血の気が引いた。紙のように。白くなる。振り返る。


走る。長いスカートが。


角を曲がるとき。壁へ擦れる。そんなこと。どうでもいい。ただ。走る。頭の中で。必死に。アンナが。どこへ行くのか。考える。知っている。彼女を。性格を。隠している頑固さも。口にできない絶望も。全部。塔。その一文字が。浮かんだ瞬間。さらに。足が速くなる。涙は。もう。先に。落ちていた。


________________________________

城壁の外。ジェフリーは。


石台へ座ったまま。突然。顔を上げた。何が。そうさせたのか。自分でも。分からない。音はない。動きもない。ただ。胸の中。一晩中。ぶら下がっていた。説明のできない。鈍い重さ。それが。突然。強く。締まった。


長いあいだ。

張りすぎていた弦が。

限界へ来たように。


視線が。城壁を。上へ。辿る。斑になった煉瓦の隙間。枯れた蔦。そして。最後。塔の上。



彼は。勢いよく。立ち上がった。自分でも。何を見たのか。分からない。もしかしたら。何も。見ていない。でも。その感覚が。頭より先に。脚を動かした。夢の中で。何かの声を聞き。目覚めたあと。


何も思い出せない。でも。理由も分からず。胸だけが。ひどく慌てている。そんな。動き。手綱を外す。馬へ乗る。蹄が。石畳を。


強く打つ。急な音。どこへ行くのか。分からない。ただ。城壁の向こう。何かが。おかしい。馬を。城門へ。走らせる。琥珀色の瞳。いつも。底へ押さえていた。平静な色。そこへ。亀裂。


その下から。熱い。焦燥。本人が。ずっと。認めなかったもの。でも。昨夜から。ずっと。燃えていたもの。早く。心の中で。言う。誰を。急かしているのか。分からない。________________________________


アンナは。いつものように。塔へ来た。王宮の一角。でも。壊れているのに。誰も。修理しない。まるで。自分みたい。


国王の娘。なのに。


理由も分からず。父に愛されない。母も。自分のせいで。命を絶った。この王宮で。アディー以外。誰からも。愛情を得られない。兄弟姉妹からは。見下される。それを見た使用人まで。同じように。扱う。唯一。価値があると言われるのは。美しい顔。人形みたい。政略結婚へ使える。価値。でも。今。それにさえ。逆らっている。なら。この王宮で。最後まで残っていた。自分の用途も。もう。なくなるのかもしれない。塔の上。


いつも通り。両腕を。

城壁の外へ。出す。ここだけが。自由へ。いちばん。近い。外へ伸ばした手だけが。幼い頃から。自分を閉じ込めてきた牢から。

抜け出せる。ただし。今日。


掌にあるのは。いつもの。小さな菓子でも。木馬でもない。ペーパーナイフ。塔の上は。城壁の下より。ずっと。風が強い。壊れた胸壁を。風が。唸りながら抜ける。アンナの髪が。横へ。激しく舞う。顔の半分を。隠す。でも。払わない。掌の線と同じくらい。よく知っている。低い城壁。そこへ。


両腕を置く。身体の重心を。少し。前へ。これまで。何度も。


朝に。夕暮れに。

ここへ立ったときと。同じ。違うのは。袖の中に。刃があること。そして。瞳の奥。細く。頑固に。残っていた光。それが。もう。消えかけていること。城壁の下を見る。遠い。あまりにも。遠い。別の世界みたいに。風が。スカートを。外へ。押す。足元が。浮いているような。


不安定な感覚。それでも。一歩も。

後ろへは。下がらない。この塔は。


壊れている。物心ついた頃から。ずっと。煉瓦の隙間から。雑草。窓枠は。半分。腐っている。



階段には。二段。緩んだ石。


踏めば。鈍い。割れる音。父王は。一度も。


修理を命じなかった。アンナは。城壁の外へ。伸ばした手を見る。細い。きれいに。手入れされている。宴会場へ。飾っておくための手。婚約の指輪を。嵌めるための手。異国の王子の前で。


大人しく。裙の前へ。重ねるための手。ゆっくり。袖から。


ペーパーナイフを出す。風の中で。刃が。わずかに震える。細い。金属音。母も。耐えられなくなった。ある朝。去ることを選んだ。恨んでいない。その考えが。浮かんだ瞬間。目の奥へ。ようやく。


何かが。溜まる。でも。風が。乾かした。涙になる前に。消える。


唇を。強く。閉じる。昨夜。噛んで傷つけたところ。薄い瘡蓋。また。少し痛む。顔を上げる。風を。受ける。朝の光で。磁器の白に染まった。


空を見る。少なくとも。ここなら。もっと。空に近い。そう思いながら。指を。ゆっくり。強くする。城門の衛兵が。栗毛の馬を。止めた。「ここから先は王城の禁域だ。部外者は――」ジェフリーは。最後まで。聞かなかった。

馬から降りる。言葉を。途中で切る。琥珀色の目が。衛兵を。一度。見る。低い。急いだ声。本人さえ。気づいていない。切れそうなほどの。張りつめ。「塔」


一語。

「塔に、人はいるか?」

衛兵が。


戸惑う。答える前。遠い。回廊の角。急いだ足音。侍女。スカートは。乱れている。目は。真っ赤。息も。切れている。顔には。彼にも分かる。あの種類の。恐怖。ジェフリーは。その顔を見た。胸の中。


張りつめていた弦が。切れた。


誰の言葉も。待たない。衛兵を。大股で抜ける。昨夜。暗闇の中。なんとか。方角だけ。覚えた。塔へ。歩く。違う。走った。本当に。走った。外套の裾が。石壁の角へ。引っ掛かる。腰の剣が。壁へ。鈍く。ぶつかる。気にしない。ただ。走る。


一歩。一歩。強い。宮殿の床へ。ひびを。入れそうなほど。心臓が。速い。彼らしくない。いつも。落ち着いている。何もかも。眉と目の奥へ。押し込める男。でも。今。頭の中には。一つだけ。鈍い太鼓。何度も。同じ音。


ほかの言葉は。ない。早く。早く。早く。塔の階段は。古い。三段を。二歩で。上がる。緩んだ二段。


足の下。鈍く。


割れる音。止まらない。角を曲がる。勢いよく。顔を上げる。塔の風。正面から。流れ込む。額の髪を。持ち上げる。古い傷を。撫でる。彼女がいた。塔の入口で。ジェフリーは。急に。止まった。胸の空気を。誰かに掴まれ。全部。引き抜かれたように。息が。入ってこない。細い。背中。両腕は。


低い城壁へ。光を背に。髪が。風の中で。舞っている。そして。手。城壁の外へ。伸ばした手に。何か。握っている。足は。動かない。喉へ。何かが。詰まる。


琥珀色の目が。大きく。開く。ずっと。下へ押し込めていた。認めなかった。一晩。胸へ。吊り下がっていた。焦り。それが。全部。一気に。目の中へ。上がる。深く。息を吸う。そして。今まで。


自分が口にした。どんな言葉より。平静に。どんな言葉より。力を込めて。小さく。声を出す。「おい」たった。一言。「そこ、風が強いだろ」

「立ってるの、疲れないか」声は。震えない。震えないように。全力で。押さえる。昨夜。彼女が。暗闇から。身を乗り出したときと。同じ。一番。普通の。話し方を選ぶ。今。


重い言葉を。何か一つでも。乗せたら。彼女の中で。最後に残っているものまで。潰してしまうかもしれない。そう思った。


ジェフリーの声で。アンナが。少し。顔を上げた。すぐには。振り返らない。考えを。整えているような。力が。もう残っていないのに。それでも。立っているような。「あなた……」声を。知っている。昨夜。話した。知らない男。「どうして、ここに入れたの?」できるだけ。何でもないふり。


普通の質問。いつもと。変わらない。そう思うために。ジェフリーは。彼女の声を聞く。胸の中。何かが。一寸だけ。緩む。一寸。それだけ。まだ。振り返っていない。


手も。


そこにある。刃も。そこにある。走り寄らない。叫ばない。ただ。ゆっくり。一歩。近づく。枝に。止まっている鳥へ。近づくように。早く動けば。飛んでいく。あるいは。落ちる。「壁を越えた」平然と。答える。今日の天気を。話すみたいに。また。一歩。目は。彼女の背から。


離れない。背筋が。あまりにも。強く。張っている。一目で。分かる。いろんな。『耐えている』を。見てきた。強がり。習慣。でも。彼女のこれは。石の隙間で。長いあいだ。育った草。根を。


割れ目へ。無理に押し込んでいる。


痛くないのではない。痛すぎて。痛くない状態が。どんなものか。もう。忘れている。「この城には詳しくない」続ける。風に。消されないくらいの声。「でも昨夜、壊れた塔があるって君が言ったから」「だいたいの方角は分かった」少し。止まる。袖のそば。刃を見る。胸が。また。締まる。でも。声へは。


出さない。彼女から。三歩。そこで。止まる。それ以上。近づかない。昨夜。城壁の下へ座っていたときのように。自分を。この場所で。一番。


危険ではないものにする。「俺、本当はもう行くつもりだった」小さく。言う。自分でも。少し。馬鹿げていると思っている。そんな。


何でもない口調。「支度もした」「馬の手綱も外した」「城門まで行った……」一度。止まる。「それで、戻ってきた」風が。二人の間を。抜ける。アンナの髪を。数本。彼の方向へ。流す。ジェフリーは。それを見る。眉間が。ほんの少し。動く。でも。視線は。外さない。手は。身体の横。自然に。


下ろす。腰の剣へ。触れない。彼女へも。伸ばさない。ただ。静かに。掌を。外へ向けて。


置いている。言葉にしない。圧迫のない。意思表示。「理由は、分からない」琥珀色の目が。彼女の横顔を見る。声は。風へ言うように。軽い。「ただ、行けなかった」また。風が吹く。アンナの髪が。彼の方向へ。流れる。今度は。髪の匂い。そして。薄い。血の匂い。その言葉が。アンナの注意を。引いた。ようやく。少し。振り返る。完全には。向かない。頑固な人間が。まだ。耐えられる。


ぎりぎりの角度。「どうして?」冷たい声。自分へ。言い聞かせているようでもある。自分にも。逃げる道はある。でも。なぜ。逃げられない。「馬に乗って、手綱を振れば行けるでしょ」


「どうして無理なの……?」


血の匂いが。風へ乗って。来る。薄い。でも。針みたいに。明確。ジェフリーの目が。わずかに。狭くなる。彼女が。


振り返った瞬間。視線が。首筋。肩。そして。袖の下。薄い服の上。浮いている。濃い染み。表情は。ほとんど。変えない。ただ。眉間が。ごく小さく。沈む。水面は。ほとんど。揺れない。でも。石は。もう。底まで。沈んでいる。すぐ。視線を。彼女の顔へ。戻す。昨夜。見えなかった顔。朝の光。白い。疲れている。目の奥には。あまりにも。知っているもの。燃え尽きる寸前の。


灯り。火は。まだある。でも。もう。油まで。舐め始めている。少し。沈黙。「君の言う通りだ」低い。平らな声。「馬はいる」「手綱も持ってる」「腹を蹴れば、進む」「行けない理由なんてない」言いながら。目を。逸らさない。


半分だけ。振り返った顔へ。真っ直ぐ。柔らかい言葉で。包まない。その重さを。そのまま。置く。ゆっくり。彼女から。


二歩のところへ。しゃがむ。視線を。彼女より。低くする。上から。何かを。押しつける形に。ならないように。傷ついて。隅へ。縮こまった動物へ。話しかけるとき。自分を。小さくするように。「でも、俺は長いあいだ流れてきた」続ける。起伏のない声。


昔のことを。話すように。「たくさんの街を見た」「たくさんの人を見た」「たくさん、出会った」

「それで最初に覚えたのは、何も心に置かないことだ」「置いたら、歩くのが遅くなるから」一度。止まる。琥珀色の目。その中で。何かが。少し。


動く。琥珀そのものへ。閉じ込められた。古い。小さな光。「昨夜の塔」「あの声」


「あの目」一つずつ。ゆっくり。自分でも。今。初めて。このことを。理解しているように。「ただの通りすがりだって、自分に言った」「朝になったら行くって」「朝になったら、城門が開いたら行くって」「城門が開いて……」小さく。笑う。冗談ではない。自嘲でもない。自分にも。よく分からないものへ。仕方なく。負けを認めたような。そんな。笑い。視線が。彼女の袖へ。一瞬。落ちる。そして。


顔へ戻る。声を。さらに。下げる。彼女一人にだけ。聞こえるくらい。「それで、血の匂いがした」誰の血か。聞かない。何があったのかも。聞かない。ただ。そこへ。しゃがんだまま。彼女を見る。憐れみはない。


上からの。同情もない。ただ。直接。静かに。一人の。『人間』を見る目。昨夜。彼女が。彼を見たときと。同じ。手を。ゆっくり。彼女が。刃を握っている手へ。


伸ばす。


奪わない。指先は。一寸。手前。そこで。止まる。無言の。お願い。「それ、先に置いてくれないか」命令ではない。懇願でもない。友達が。話すような。ただの。お願い。「君も立ってると疲れる」「俺もしゃがんでると疲れる」口元に。ごく小さな。弧。「座って話せるだろ」刃へ。


言及されて。アンナは。無意識に。さらに。握り込む。


「だめ」考えるより。早い答え。それを。離せば。自分の運命まで。手放してしまうように。ジェフリーは。動かなかった。指先は。一寸手前で。まだ。止まっている。それ以上。近づけない。でも。引きもしない。彼女の指が。さらに。強く。刃を握る。


指の関節が。白くなる。


それを見る。胸の奥。何かが。静かに。重く。沈む。でも。顔へは。出さない。長く。見る。それから。「分かった」とても。小さな声。「置かなくてもいい」ゆっくり。手を戻す。奪わない。


もう一度。伸ばしもしない。手の甲を。自分の膝へ。置く。しゃがんだまま。彼女を見る。


風が。二人の間へ。入る。色褪せた外套の端を。持ち上げる。押さえない。そのまま。風へ任せる。少し。沈黙。「一つ、聞いていいか」


普通の声。今日。どの道を。行くのか。尋ねるみたいに。「答えたくなければ、答えなくていい」「風が持っていったことにしてくれ」視線が。刃を握る手へ。一秒。そして。また。顔へ。「その傷……」とても。ゆっくり。軽く。置く。「誰かにつけられた傷か」


「それとも、自分でつけた傷か」琥珀色の目は。逃げない。憐れまない。ただ。まっすぐ。静か。どんな答えでも。自分は。ここから。


立って去らない。そんな。視線。風の中。背筋を。伸ばしている。目立たない。でも。確かに。彼女と。足元の虚空の間へ。


置かれた。小さな壁。アンナは。長く。黙った。背中の傷から。まだ。血が滲んでいる。風が。その匂いを。運ぶ。自分にも。分かる。「両方」淡々と。答える。そして。背を向ける。矮い城壁へ。身体を。預ける。「言うことを聞いてれば、何も起きなかった」『両方』その二文字が。ジェフリーの耳へ。落ちる。底のない水へ。石が。沈む。音はない。ただ。


重く。下へ。落ちていく。喉仏が。ほんの少し。動く。彼女が。背を向けた瞬間。視線が。勝手に。背中へ。行く。


薄い服。その下。何本か。濃い。不規則な跡。

誰かが。何かで。背中へ。


刻んだような。はっきりした。跡。顎が。一瞬。強くなる。歯が。僅かに。軋むほど。でも。すぐ。戻す。音は。出さない。『言うことを聞いてれば』長い。沈黙。「言うことを聞く?」ゆっくり。繰り返す。石を。裏返して。その下を。


見るように。「誰の?」答えは。待たない。そのまま。続ける。声は。高くない。でも。はっきり。一つずつ。安定している。「言うことを聞いたら、そのあとどうなる」立ち上がる。一歩。近づく。彼女の。真後ろへは。行かない。横。少し目を動かせば。見える場所。


圧迫しない。彼女と同じように。両腕を。低い城壁へ。置く。一緒に。遠い。地面を。見る。少し。黙る。それから。突然。「俺の母親は、魔女だった」天気を。話すみたいに。平静。


「俺の故郷じゃ、魔女の子供は占いができるべきだった」「母親の力を継ぐべきだった」「みんなが望む通りに育つべきだった」一度。止まる。横を向く。


彼女の横顔。琥珀色の目の中。何か。憐れみより。もっと。深いもの。「俺には、何の才能もなかった」小さな声。「だから、あいつらの理屈なら」


「俺は生まれたときから役立たずだった」


「言うことを聞いて、消えたほうがよかったんだろうな」風が。二人の間を。抜ける。視線を。彼女から。


遠い空へ。移す。口元へ。苦いのか。平静なのか。分からない。小さな。弧。「でも、俺は消えなかった」声は。低い。彼女一人へ。話すように。


「剣を取った」


「あの町を出た」「ここまで歩いてきた」少し。止まる。「痛くなかったからじゃない」また。彼女を見る。平静。でも。迷いはない。「言うことを聞けって言った連中の言葉が」


「俺の命と交換するほどの価値じゃなかっただけだ」視線が。刃を握る手へ。一秒。そして。顔へ。戻る。風に。消えそうな。小さな声。「背中の傷は、誰かがつけたものだ」


「でも、その刃まで、そうする必要はない」アンナの身体が。少し。縮こまる。刃を握る指も。さらに。強く。睫毛が。瞬く。


日差しが。その先へ。小さな光を。置く。「父……」小さく。それだけ。その二文字だけで。誰の言葉を。


聞けと言われたのか。

誰が。傷を作ったのか。全部。分かる。父。羽根みたいに。軽く。


落ちる。でも。地面へ。ついたとき。墓石ほど。重い。ジェフリーは。すぐには。言葉を返さなかった。ただ。彼女が。身体を縮める。その小さな弧。強くなった指。睫毛の上。朝の光が。細かく。散る。その光は。あまりにも。軽い。今の彼女が。抱えている重さと。残酷なくらい。合わない。喉へ。何か。詰まる。角のない石。吐き出せない。


飲み込めない。十四歳を。

思い出す。森の火。火の中で。必死に。叫んだ。あの二文字。一瞬。


目を閉じる。短い。何かを。もう一度。奥へ。押し戻す。そして。目を開く。彼女を見る。平静。でも。普段。めったに。外へは出さないもの。琥珀の中へ。閉じ込めていた光が。少しだけ。透けている。『分かる』とは。言わない。


人の傷は。それぞれ。違う場所にある。簡単に。分かると言うのは。違う。だから。何も言わず。


身体を。横へ。彼女と。並ぶ。一緒に。城壁の外。朝の光で。薄く。遠くなった。空を見る。風は。吹き続ける。長い。


長い沈黙。


沈黙そのものが。一つの。付き添いになるほど。長く。それから。ようやく。掠れた。低い声。深いところから。上がってくる。「俺も、十四のときに両親を失った」


詳しくは。言わない。火のことも。廃墟の中。一人で。夜明けまで。立っていたことも。ただ。その一文を。二人の間へ。置く。石を。もう一つの石の隣へ。そっと置くように。比べない。ただ。同じような重さを。一人だけで。抱えているわけではない。それを。知らせるために。視線を。


下げる。彼女の手。刃。「そのあと、長いあいだ」平らな声。波のない。川のように。「俺も、痛いのは、自分が受けるべきものなんだと思ってた」長く。止まる。風が。方向を。変えるほど。長く。それから。ほとんど。息だけの声。「あとになって分かった」「俺が受けるべきものじゃなかった」


彼女を見る。横顔。風に。乱れた髪。目の奥に。


溜まっている。でも。落ちてこないもの。「君もだ」アンナの睫毛が。小さく。震えた。何かが。落ちてしまうのを。必死に。押さえているように。


そのとき。国王から。送られた衛兵たちが。来た。アンナの状態を。


確認するため。そして。実際には。部屋へ連れ戻し。厳しく。見張るため。昨夜。彼女を宴会場へ。連れて行った。


侍衛長。国王の側近。クループ。塔の階段の入口へ。立っている。「公主」「お部屋へお戻りください」一度。止まる。「私が上へ行き、下までお連れしてもよろしいでしょうか」試している。アンナの反応で。自分から降りるのか。強制する必要があるのか。


判断するため。侍衛長の声を聞いて。アンナは。少し。黙る。「自分で行く」冷たい声。ジェフリーの存在へ。気づかれたくない。父へ。報告されたくない。ため息。


そして。握っていた。ペーパーナイフを。ジェフリーが。寄りかかっている。低い城壁へ。置く。ちょうど。彼の腕のそば。もともと。ここで。起きようとしていたことを。隠すように。また。気まぐれに。拗ねていただけ。そう。見せるように。「私たちが下りて、みんながついてきたら、すぐに行って」淡々と。


「父に、私が男のせいで縁談を嫌がってるなんて誤解されたら」


「あなた、殺されるわよ」言い終わる。そして。振り返る。塔を。下りていく。ジェフリーは。低い城壁。自分の腕の隣へ。置かれた。ペーパーナイフを見る。朝の光。刃は。静かに。横たわっている。もう。役目を。終えたもののように。動かない。一秒。見る。そして。顔を上げる。彼女の。背中。まだ。真っ直ぐ。耐えている。薄い服の下。濃い跡が。歩くたび。少し。動く。


見てはいけなかった。でも。

もう。見てしまった。


秘密。父へ。誤解されたくない。自分が。死ぬ。彼女は。そう言った。口元が。少し。動く。何の感情か。分からない。苦い。あるいは。もっと。複雑。本人も。まだ。整理できていない。ゆっくり。ペーパーナイフを。拾う。掌へ。刀柄には。


まだ。彼女の温度。薄い。でも。分かる。塔の階段。足音。


一歩。また一歩。遠くなる。ジェフリーは。何も言わない。低い城壁のそば。刃を握り。顔を伏せる。風が。額の髪を。古い傷の上へ。流す。彼女の足音。小さく。消えていく。侍衛長が。黙って。身体を返す音。塔が。また。壊れたまま。誰にも。


直されない。静けさへ。


戻っていく。長いあいだ。動かなかった。そして。ゆっくり。ペーパーナイフを。外套の内側へ。しまう。昨夜。拾った小石。その隣。一緒に。胸元。手を。そこへ。少し。置く。掌越し。二つの重さ。どちらも。軽い。でも。どちらも。


重い。足元を見る。塔の床。青い煉瓦の隙間。

雑草。角には。半分。崩れた煉瓦。塔全体。どこも。壊れている。長いあいだ。壊れたまま。誰も。直しに来ない。目を閉じる。


風。血の匂い。朝の空気。深く。吸う。ゆっくり。吐く。目を開く。振り返る。階段へ。足取りは。重い。でも。安定している。緩んだ二段。その上を。わざと。静かには踏まない。鈍い。割れる音。塔を出る。回廊を歩く。


城門へ。戻る。栗毛の馬は。老槐へ。

まだ。繋がれている。彼を見る。鼻を鳴らす。尾を。振る。ジェフリーは。


手綱を外す。馬へ乗る。鞍の上。姿勢を整える。でも。すぐには。動かない。横を向く。最後に。城壁を見る。上が。見えない。古い塔を見る。目は。静か。深い水。底に。何かがある。見えない。彼女は。早く行ってと言った。父へ。


誤解されたくないと。

手綱の上。指が。締まる。


緩む。また。締まる。また。緩む。胸元。二つの重さが。同時に。押してくる。小石。ペーパーナイフ。顔を。まだ。数えるほどしか。見ていない。少女。馬腹を。軽く。蹴る。馬が。


ゆっくり。歩き出す。十歩。二十歩。通りの。

曲がり角。そこで。手綱を。引く。顔を伏せる。


長い。沈黙。馬は。その場で。蹄を鳴らす。不満そうに。首を。振る。彼は。動かない。暗闇の中。前の道を。見ようとしている。でも。どうしても。見えない。そんな人。ゆっくり。顔を上げる。城壁の方向。目は。重い。赤く。焼けている。


でも。まだ。外へは。出さない。鉄のように。顎の線が。張る。額の古い傷。朝の光で。薄く。浮かぶ。ずっと。昔。誰かが。残した。印。自分は。何も。失ったことがないわけじゃない。失うということを。知っている。そう。思い出させる。彼は。行かなかった。


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侍衛長のあとを。歩いていたアンナが。



突然。自分から。父へ会いたいと言った。「クループ。父に会わせて」冷たい声。まるで。会うだけでも。許可が必要。そんな。言い方。「先に取り次ぎが必要?」「私に会う気があるか、聞いてくる?」クループの足が。階段の入口で。


止まった。もともと。口数の少ない男。


長年。侍衛長として。生きてきた。何でも。顔へ出さない。石みたいな人。でも。今。振り返る。アンナの。白い。冷静な顔を見る。目の中。何かが。ほんの少し。動く。憐れみではない。職務とは。別のところ。本当に。短い。人間としての反応。二秒。沈黙。「取り次ぎます」平静。公務的。棘のある。後半の質問には。答えない。アンナは。回廊へ。立つ。

背後の衛兵。二歩。距離を。保っている。遠すぎず。近すぎず。


動く。石。振り返らない。ただ。立つ。背筋は。まだ。真っ直ぐ。立っている時間が。長くなるほど。背中の傷は。さらに。焼ける。でも。動かない。眉さえ。寄せない。痛みを。呼吸と。同じものに。分類したように。慣れてしまえば。痛みではない。そんな顔。回廊の光。窓の隙間から。斜めに。入る。床へ。長い。細い。光の線。アンナの影。


長く。伸びる。石の継ぎ目を。越えて。先へ。先へ。見えない。暗がりへ。入っていく。自分の影を見る。目は。平ら。もう。波紋の立たない。水面のように。今日。父へ。

言うこと。頭の中。一度。整理する。涙はない。怒りもない。ただ。怒りより。さらに。冷たいもの。長いあいだ。盤上へ。置かれていた駒が。ようやく。盤上の言葉で。話すことを。覚えた。そんな。目。ジェフリーの言葉を。思い出す。『言うことを聞けって言った連中の言葉が、俺の命と交換するほどの価値じゃなかった』


指が。

少し。強くなる。裙の横。布の模様を。指の腹で。なぞる。


一度。また。一度。何かが。まだ。ここにある。それを。確かめるように。もう。刃はない。塔へ。置いてきた。名前さえ知らない。流浪の騎士へ。渡した。なぜなのか。分からない。でも。彼の手にあるほうが。自分の手にあるより。安全な気がした。回廊の先。クループの足音。戻ってくる。彼女の前で。


止まる。頭を下げる。いつもの。平静な声。

「陛下が、お会いになります」一度。止まる。何か。

言いかける。でも。最後は。手を上げ。どうぞ。という動きだけ。後半は。また。飲み込む。アンナは。深く。息を吸う。回廊の空気。冷たい。


石と。古い蝋燭の油。そんな。匂い。その息を。胸へ。押し込む。扉の向こうへ。持っていかないもの。全部。そこへ。押さえ込む。それから。歩く。足音が。


回廊へ。響く。速くない。遅くない。

引きずらない。一歩。一歩。安定している。もう。退く場所を。考え終えた人が。前へ。歩く姿。父の書斎。扉の前。そっと。叩く。急がない。でも。


温度もない。「イオアンナです」それだけ。中から。許されるのを。待つ。まるで。扉の向こうの人と。何の関係もないように。


書斎の中。少し。沈黙。意図的な。沈黙。物差しみたいに。権威と。

服従の距離を。測る。扉の外。


待たせることで。先に。少し。頭を下げさせる。そんな。沈黙。アンナは。扉の前。背筋を。伸ばしている。両手は。自然に。


裙の横。顔には。何もない。麻痺ではない。もっと。意識的。自分から。何もない状態へ。空にした。静けさ。背中には。傷。一秒。立つたび。焼ける。でも。微動だにしない。重心さえ。変えない。石の隙間へ。根を。打ち込んだ。植物。痛んでいるか。外からは。見えない。でも。必ず。痛い。「入れ」扉の向こう。声。平静。低い。公文書へ。


捺された。印章。逆らうことを。許さない。重さ。アンナの手が。上がる。扉を。開く。書斎は。回廊より。暗い。厚いカーテン。


一筋だけ。開いている。細い。


朝の光。斜めに。入り。絨毯の端へ。落ちる。そこで。消える。フェトランティスは。机の向こう。座っている。手元には。何枚かの。文書。顔を上げる。彼女を見る。顔。背中。また。顔。感情を。出さない。帳簿の。確認でも。するように。アンナは。机から。二歩。離れたところで。止まる。礼を。


しない。あるいは。した。ほんの。最低限。礼儀として。成立するだけ。浅い礼。角度は。正確。刃のよう。礼儀の境界を。なぞる。越えない。でも。下がらない。顔を上げる。真っ直ぐ。父の目を見る。父と娘。視線が。空気の中で。ぶつかる。二つの。石。火花はない。ただ。重く。押し合う。書斎は。静か。アンナが。口を開く。


大きな声ではない。


でも。一語ずつ。

安定している。ここまで。歩いてきた。足音と。同じように。


「条件の話をしに来ました」

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