


Ch7.馬があっても立ち去れない人
アンナは部屋でしばらく待っていた。苛立っていたわけでもなければ、特別な感情があったわけでもない。ただ、机の上の花瓶を見ていた。
そこには、アディーが朝早く取り替えてくれた新しい花が挿してある。アンナはそのうちの一本を手に取った。茎の根元は斜めに切られていて、少し尖っている。彼女はその切り口を、自分の腕の上へゆっくり滑らせた。薄赤い痕が何本か残っている場所をなぞる。
まるで、それが鋭い刃物であるかのように。昔持っていた、あのペーパーナイフのように。扉を叩く音が聞こえ。
外からアディーの声がしたところで。ようやくアンナの意識は引き戻された。
「アディー、戻ったのね」彼女はすぐに立ち上がり。アディーのために扉を開けた。アディーは笑いながら部屋へ入ってきた。籠を少し高く持ち上げ。アンナへ見せる。「買ってきました」と言おうとした、その瞬間。
視線がアンナの腕へ落ちた。薄赤い痕へ。そして。アンナが手にしている花の、斜めに切られた茎の先へ。
笑みは顔に残ったままだった。消えはしない。けれど。瞳の光が一段だけ暗くなった。すぐには何も言わなかった。籠を机の上へ置く。壊れやすいものを扱うように。とても静かに。それからアンナの前へ歩み寄り。手の中の花を受け取った。
奪うのではない。ただ。本来そこにあるべきではないものを、自然に取り除くように。花をもう一度、花瓶へ戻す。
それから身体を少し横へ向け。最も落ち着いた声で言った。「買ってきました」籠の中から菓子を取り出す。一つずつ。小皿へ並べていく。その動きには。彼女が長い年月をかけて身につけた安定があった。
胸の痛みを奥へ押し込み。それでも目の前のことを続けるための。そんな安定。けれど。
振り向いた一瞬。目尻がほんの少し赤くなった。アンナには見せなかった。「それから、ある人にも会いました」何でもない世間話のように。軽い声で言う。菓子の皿をアンナへ少し近づけながら。「お嬢様、誰だと思います?」顔を上げる。アンナを見る。いつもの口調の下には。
彼女を支えようとする優しさが、そっと隠れていた。アディーは心の中で。
今日、路地の入口であの男が言った言葉をもう一度思い出していた。
『あの塔の上に立っている人を一度見たら、見なかったことにはできない』今日は絶対に。
この言葉を伝えなければならない。そう思った。何か物語を聞かせたいからではない。この世界のどこかに。あの日を覚えている人がいる。あの場所を覚えている人がいる。お嬢様を覚えている人がいる。
しかも、その人はまだこの街にいて。
まだ去っていない。そのことを。アンナは知るべきだった。目の前へ押し出された菓子を見て。アンナの口元が少し上がった。けれど瞳には、ほとんど笑みがない。
それでも。いつもの自分へ戻ろうと。彼女なりに一生懸命だった。「誰?」顔を上げる。そして笑みを引っ込めた。冷たくしたいわけではない。
何かを考えるだけの力がなかった。頭の中に。濃い霧に覆われた森があるようだった。
アディーは。アンナの瞳の中のその霧を見た。胸の中に広がるものが何なのか。自分でもよく分からなかった。彼女はアンナの隣へ座った。すぐには話さない。ただ。菓子の皿をもう少し彼女の手元へ寄せる。
それから口を開いた。「あの人です」声は軽い。
「塔まで、お嬢様を探しに行った人」一度止まる。アンナの顔を見る。「あの人、まだ街にいます」「まだ、行ってません」その言葉を。アディーはとてもゆっくり言った。一つずつ置くように。静かな水面へ。
石をそっと落とすように。波紋が広がるかどうかは分からない。でも。落とした。「今日、城東で会いました」「菓子を買うところまで、一緒に来てくれたんです」アディーは顔を伏せる。皿に並んだ素朴な菓子を見る。声をさらに少し落とす。「この菓子のお金も、半分はあの人が出しました」「それから……」顔を上げる。アンナの目を真っ直ぐ見る。
「好きなら、少し多めに持って帰ってやれって」アディーは。そのあとの話はしなかった。『あなた、うちのお嬢様に惚れたんじゃないですか』
そう言ったことも。
彼の耳の根元が赤くなったことも。言わない。あまりにも重い。一度に多く置けば。
かえって何も受け止められなくなる。だから。小さな事実だけを静かに置いた。そして待った。窓の外から風が入り。
帷の端を軽く持ち上げる。光が皿へ落ち。菓子を温かく照らした。「あの人」と聞いた瞬間。
アンナの頭の中を覆っていた霧が。ほんの少し薄くなった。
あの男。自分のペーパーナイフを持っている人。「あの人?」瞬きをする。反応は少し鈍い。「どうして、まだ行ってないの?」「それに……どうして私がこれを好きだって知ってるの?」菓子を見る。自分でアディーへ買ってきてほしいと頼んだものなのに。
まだ食べようという気にはならなかった。アディーは。アンナの瞳の霧が一段薄くなったのを見た。胸の奥で。そっと息をつく。
一つ菓子を手に取る。そして、さりげなく。アンナの掌へ置いた。「知らなかったんです」アディーは穏やかに言う。「私が教えました」一度止まる。「あの人が、この数日お嬢様はどうしてるのかって聞いたから」「今日はお嬢様に頼まれて、菓子を買いに来たって言ったんです」
「そしたら、少し多めに持って帰れって」ジェフリーがなぜアンナのことを尋ねたのか。そこは説明しなかった。ただ。起きたことを、そのまま置く。
その言葉の奥に何があるのか。アンナ自身が感じられるように。
外でまた風が動く。帷が小さく揺れた。アディーは顔を少し横へ向け。アンナの掌の中にある。まだ手をつけられていない菓子を見る。「それから……どうして行かなかったのかは……」あの路地で見た男の横顔を思い出す。王宮の方向を見ていた琥珀色の瞳。
そして。『分からない』あの言葉。「お嬢様」アディーの声が。さらに柔らかくなる。水面へ落ちる葉のように。「何かを一度見てしまったら、そのあともう歩いて行けなくなる人もいるんです」それ以上は言わない。視線を。アンナの掌の菓子へ落とす。「まず、一口食べてください」
アディーの言っている意味は。よく分からなかった。それでもアンナは。素直に菓子を一口噛んだ。小麦の自然な甘さが。口の中へ広がる。ほんの少しだけ。自分がまだ生きているという味がした。
「あの人……名前、言ってたかしら」アンナは淡々と呟いた。「忘れちゃった……」なぜこんなことを言うのか。自分でも分からない。ただ。二度しか会っていないのに。彼の名前をきちんと覚える機会さえなかった。それなのに。彼は自分の名前を覚えている。「ほかに……何か言ってた?」アディーは。アンナが菓子を一口食べたのを見た。
胸の中で。何かがそっと落ち着いた。急いで答えない。ただ。アンナの横顔を見る。
まだ完全には晴れていない薄い霧。その霧の下で。彼のことを尋ねる。本人さえ気づいていない表情。「ジェフリー」アディーは言った。「ジェフリー・グラントです」その名前を。
何の飾りもなく。平らに口にする。まるで。持ち主へ返すべきものを。
本来あるべき場所へ戻すように。アンナが。ほかに何か言っていたのかと尋ねる。アディーは心の中で。今日交わした会話を最初から辿った。
一つ一つの言葉の重さを測る。すぐには答えず。手を伸ばした。アンナの腕に残っている。何本かの薄赤い痕。そこへ。袖口をそっと被せた。責めない。問い詰めない。ただ覆う。とても昔から続けてきたような。静かな仕草で。そして言った。「『あの塔の上に立っている人を一度見たら、見なかったことにはできない』って」声はとても軽い。
「お嬢様。あの人が言っていた、その人は……」「あなたです」部屋が一瞬。静かになった。窓から入る光が。
二人の影を長く伸ばしている。菓子の甘い匂いはまだ残っている。
アンナの掌には。食べかけの半分がまだあった。アディーは、それ以上何も言わなかった。言葉は。ここまでで十分なこともある。アディーから塔の話を聞いて。アンナは少しだけ目を伏せた。
誰にも気にされない場所。けれど。自分にとっては。
最も自由に近づける場所だった。「私があそこに立ってたからって……何なの?」また菓子を一口噛む。何でもないことのように尋ねた。けれど。自分では気づいていない。
小さな関心が。その声の中には確かにあった。アディーはすぐに答えなかった。
アンナが菓子を噛む横顔を見る。
「何なの?」と言ったとき。その瞳に浮かんだ。本人も知らないほど淡い関心。胸の何かが。また少し柔らかくなる。この子は。自分が気にしていることにすら。気づいていない。
アディーは二秒だけ黙った。
それから。目元を僅かに細める。声には。
普段アンナへ向けることの少ない。答えを隠した笑いが混じった。「お嬢様。本当のことを言ってもいいですか?」返事を待たない。顔を伏せ。皿に残っている最後の菓子を。
アンナのほうへ少し押す。声を軽くする。二人だけが知っている話をするように。「あの人は、お嬢様がそこに立ってたことについて、何も言ってません」一度止まる。
「ただ、自分はもう行けないって言っただけです」アンナの顔は見ない。指先で。皿の縁を少しだけ整える。口調は。今日の天気の話でもしているように平らだった。「外をずっと流れ歩いていて」「一つの場所へ長く留まることなんてない人が」そこで顔を上げる。アンナを見る。
「そのせいで、行けなくなったんです」アディーがずっと何かを暗示している。そんな気はした。でも。アンナには方向が分からなかった。
まだ恋というものを知らない。だから当然。男女の想いへ結びつけることもない。「あの人、馬を持ってるじゃない」不思議そうに瞬きをする。「それなのに、どうして行けないの?」
アディーは。『馬を持ってるのに、どうして行けないの?』
その言葉を聞いて。きっちり三秒。黙った。それから顔を横へ向け。手で口元を軽く押さえた。
机の皿を整理しているふりをする。この子は。心の中でため息をつく。そのため息には。三分の心配。
三分のどうしようもなさ。
そして残り四分には。笑いたい。でも笑ったらかわいそう。そんな。何とも言えないものが混じっていた。軽く咳払いする。もう一度顔を戻す。
表情はいつも通り。ただ目尻だけ。まだ完全には消しきれない弧が残っていた。「馬があっても、行けないことはあります」平静に言う。
「脚が怪我してなくても」「道が塞がってなくても」「それでも行けないことは、あるんです」「お嬢様も、いつか分かります」それ以上は説明しない。すると。アンナが小さく。
「どうして?」と呟いた。
アディーの手が止まった。顔を少し横へ向ける。無意識に。小さく問い返している横顔。
瞳の中には。本人がまるで気づいていない集中。何も言わなかった。ただ。目元を少しだけ細める。最後の一つを。そっとアンナの掌へ置く。
羽根のような軽い声。
「名前は、もう覚えましたか?」また渡された菓子を受け取る。気づけば。もう何個も食べていた。「覚えた」一度止まる。それからもう一口噛んで。
少し口をもぐもぐさせながら言った。「それに……」「この菓子のお金、半分あの人が出したことも覚えてる」アディーは。アンナがいつの間にか。何個も菓子を食べている姿を見た。胸の中で。何かが。今度こそ完全に落ち着いた。何も言わない。ただ見る。
彼の名前を覚えている。菓子の半分を彼が払ったことも覚えている。そのときの表情は淡い。言葉も。口の中に菓子が入ったままで。本人はたぶん。
自分が何を言っているのかさえ。
きちんと分かっていない。けれど。覚えている。ジェフリーを。あの半分のお金を。彼が行けなくなったことを。まるで。本人も気づかないまま。何かを胸の中へ抱き寄せている人のように。すでに抱いていることすら。
まだ知らない。アディーは。今日の出来事を。最初から最後まで。心の中でもう一度辿った。あの男の耳元が赤くなったこと。そしてこの子が。ぼんやり菓子を噛みながら。
一つ一つの細部を全部覚えていること。顔を伏せる。ほとんど空になった皿を横へ寄せる。
何でもない思いつきのように。
軽く言った。「それなら、お礼を言いますか?」一度止まる。「あの人、まだ街にいますよ」
アディーは顔を上げなかった。ただ。机の上をゆっくり片づけている。でも。口元の弧は。今度はもう隠さなかった。アンナは。口元についた菓子の屑を軽く払った。けれど。
アディーの問いで。すぐに固まる。「私……」本当は。少しだけ。彼に会うのが怖かった。自分の最も弱いところを。
一人の人間に掴まれてしまったような。そして自分も。相手の弱いところを一つ持っているような。握っているのも違う。手放すのも違う。
どうすればいいのか。分からない。また思い出す。塔の上で交わした会話。この数年の中で。最も短かったかもしれない。でも。一番まっすぐ。心の奥へ届いた会話だった。けれど。ただ一言。
「ありがとう」それだけ。何がそんなに言いづらいのだろう。その一言を聞けば。彼は馬へ乗り。行きたい場所へ行けるかもしれない。
アンナは少し止まり。
それから。軽く頷いた。
それ以上は何も言わない。「うん」アディーはその一言を聞いて。
何も言わなかった。顔を伏せ。皿に残った最後の細かな屑を。
指先でそっと集める。口元の弧はそのまま。大きくはない。でも。安定していた。
アンナが何を考えているのか。分かっていた。一言。ありがとうと言う。そうしたら。彼は馬へ乗って。好きな場所へ行ける。きれいに。お互い何も借りを残さず。終わる。アディーは立ち上がった。
籠を腕へ掛ける。窓辺へ行き。
帷を少し整える。もっと光が入るように。それから振り返り。ごく日常的な声で言った。
「じゃあ、明日。私から伝えておきます」
「お嬢様が会いたがってるって」一度止まる。さらに付け足す。「城門の外で」「明るいうちに」「近衛兵も行き来する場所です」「お嬢様は、少し話をしたらすぐ戻ればいいんです」「誰も変には思いません」迷う時間を。
あまり与えない。想像を膨らませる隙も。あまり与えない。ただ。本当に小さなことのように言う。少し外へ風に当たりに行く程度のことのように。けれど。片づけるために背を向けたとき。
アディーは。そっと息を吐いた。今日は。アンナがたくさん菓子を食べた。それで十分だった。その夜。アンナはベッドへ横になっていた。天井を見つめる。
両手で持っている布団が。少しずつ。鼻のすぐ下まで上がってくる。
ジェフリーのことを考えていた。どうしてなのか。
自分でも分からない。
ただ。考えていた。あの日。塔の上で。彼が言ったこと。自分のことを話したこと。彼は。魔女の息子だった。
そのことが。
一番強く記憶へ残っている。ロシニトロでは。
魔術も占いも禁じられているから。とても。とても昔。
いつからなのか。もう誰にも分からないほど昔。
そういうものに関係する人も。物も。出来事も。すべて徹底的に排除された。
この国では。その類の話をするだけでも。地下牢へ入れられることがある。あるいは。処刑される。王家に受け継がれてきた帝国の血は。武力こそがすべてだと信じている。剣と刃こそが神聖。目に見えないものを信じるのは愚か。
魔術を使うこと。未来を見透かそうとすることは。卑怯で。恥ずべきものだと。そう考えている。なのに。ジェフリーは。自分が魔女の息子だと。アンナへ話した。彼が。ロシニトロのことを知らないはずがない。
アンナはそう思った。彼は旅を続けてきた人だ。
あちこちを渡り歩いてきた。知らないはずがない。それなら。これは。どういう意味?アンナはその夜。
ずっとそのことを考えていた。
何度も。何度も。頭の中で繰り返す。そして。いつの間にか。深い眠りへ沈んでいった。

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