


Ch8.紫羅蘭色の初見
城東の宿の一室で、ジェフリーは眠っていなかった。
窓辺に腰掛け、片脚を立て、その膝に肘を置いている。顎をわずかに引き、視線は窓の外――ここからは見えない王宮の方角へ向けられていた。
夜風が窓際の蝋燭を二度揺らしたが、彼は手を伸ばして庇おうともしなかった。
考えていたのは、今日アディーから聞いた話だった。
ジェフリーは、何かを残しておくことに慣れた人間ではない。
七年間歩き続ける中で覚えたのは、身軽でいることだった。余計な荷物を持たない。余計な記憶を残さない。
どこか一つの場所に、深く根を下ろしすぎない。それなのに今、自分の頭の中にはAnnaに関することがいくつも残っている。しかも、そのどれもが妙なほど鮮明だった。
まるで誰かが細い彫刻刀で、一つずつ丁寧に刻み込んだかのように。
刃を握っていた手が震えていなかったこと。
朝の光を受けていた横顔。
彼の脇を通り過ぎたときに漂った、かすかな血の匂い。
そして、あのペーパーナイフの柄が擦れていた位置。
ジェフリーは顔を伏せた。胸元の隠し袋へ右手を重ねる。
布越しに、もうすっかり馴染んだ輪郭を確かめるように。自分が魔女の息子だということを、彼はAnnaに話した。
あの言葉を口にしたとき、深く考えていなかった――
いや。考えてはいた。それでも、話した。ロシニトロでそんなことを口にする意味を、知らないはずがない。
七年間の放浪で、この大陸の法律も禁忌も、大抵の人間よりよく知るようになった。
もちろん、この国が魔術をどう扱うのかも。それでも。彼は話した。
ジェフリーは顔を上げ、夜の中で城壁に切り取られた細い空を見つめた。とても静かな息を一つ、吐く。
なぜ話した?長いこと心の中を探し回り、ようやく見つけたのは、完全な答えとは言えないものだった。彼女があそこに立っていたから。その目に絶望があったから。そしてあの瞬間。彼女には、本当のことを一つ聞く権利があるように思えた。
流浪者が普段、人を適当にあしらうために口にするような、滑らかで、何の重みもない世間話ではなく。
真実を。
彼は彼女に真実を渡した。
彼女は彼に、刃を残した。ジェフリーの親指が、隠し袋の上をゆっくり一度撫でる。そして止まった。窓の外。
遠くから夜回りの銅鑼の音が聞こえてきた。夜の中へ沈み。
やがて消える。蝋燭の炎がまた揺れた。今度はジェフリーが手を伸ばし、その炎を風から庇った。火が静かに戻る。
彼女は今、眠っているだろうか。それは分からない。けれど。もしまだ起きているなら。考えているものが、あの刃ではなければいいと思った。他の何でもいい。
本当に。何でもいいから。ジェフリーはそのまま窓辺に座り続けた。蝋燭が燃え尽きるまで。
街の最後の夜回りの銅鑼が、完全に夜へ沈んでしまうまで。そしてようやく。目を閉じた。
________________________________翌朝。アディーはAnnaの部屋の扉を叩いた。ジェフリーを探しに行くことを、知らせるためだった。数日ぶりに、また彼と言葉を交わすことになる。
正直なところ。Annaは少し不安だった。緊張もしていた。
そして、自分ではまったく気づいていない、ほんのわずかな期待まであった。朝の光が窓の隙間から入り込み、部屋の一角を淡い金色に染めている。Annaは鏡台の前に座っていた。
アディーが後ろから髪を整え、櫛の歯が髪を通る細かな音だけが、静かな部屋に響いている。Annaは銅鏡に映る自分の顔を見つめていた。どんな表情なのか、自分でもよく分からない。
ただ昨日よりは、ほんの少しだけ顔色に生気が戻っていた。昨夜。彼女は眠った。
本当に眠れた。朝までずっと浅い眠りを繰り返し、目覚めたときには眠る前より疲れているような眠りではなく。深く沈んで。気づけば朝になっていた。あの菓子のおかげなのか。それとも。別の何かのおかげなのか。
自分でも分からなかった。アディーは最後の髪飾りを差し終えると、Annaの肩を軽く叩いた。
そして鏡越しに彼女と目を合わせる。
「城東へ行ってきます」淡々とした口調。「お嬢様なら、何をしに行くのか分かっていますよね」Annaは答えなかった。ただ視線を下げ、膝の上に置いた自分の手を見る。指先が一度動いた。そして止まる。不安なのは本当だった。緊張しているのも。
あの、自分でも名前をつけられない期待も。けれどAnnaは、それを別のものとして片づけていた。ただお礼を言うだけ。言い終われば、それで終わるだけ。そう分類することで。
その小さな期待を押し込めていた。アディーは彼女のそばへしゃがみ、下から顔を覗き込んだ。
「お嬢様」Annaが視線を落とし、目を合わせるのを待つ。それから、アディーは言った。「何を言いたいのか、ちゃんと考えておいてくださいね」
少し間を置き。
口元をほんの少し緩める。「でも、考えすぎなくてもいいですから」
その言葉を聞いた途端、Annaはますます緊張した。
小さな手が裙を軽く掴む。
「わ、私……ありがとうって言えば、それでいいでしょう……」
本当に、何を言えばいいのか分からなかった。
多く話しすぎて、何か間違ったことを言うのが怖い。でも。少なすぎて、本当に伝えるべきことを何も伝えられないのも怖い。だから。
やっぱり、ありがとうだけでいい。二人はもう。きっと会わない。彼はもうすぐ、この街を離れる。そして自分は。この王宮に残る。
愛してもいない男へ嫁ぐ日を、静かに待つ。それが自分の運命なのだから。アディーは、Annaが裙を掴んでいる小さな手を見た。そして。『ありがとうだけでいい』そう言ったとき、その目の奥に浮かんだ深い諦めも。何も言わなかった。ただ立ち上がり、櫛を鏡台へ戻す。動作は静かだった。
Annaへ背を向けたまま、二秒ほど黙る。それからもう一度振り返り、Annaの前へしゃがんだ。
裙を掴んでいたその両手へ、自分の手をそっと重ねる。すぐには話さない。
ただ触れたまま。Annaが顔を上げるのを待つ。そしてようやく。二人だけの秘密を話すような、小さく優しい声で言った。「お嬢様。ありがとうは、もちろん言っていいんですよ」親指がAnnaの手の甲をそっと撫でる。「でも……」真っ直ぐ目を見る。
「あの方は、行くつもりなんてありませんよ」ジェフリーがなぜ行かないのか。アディーは説明しなかった。それ以上のことも言わない。ただ、その言葉だけを安定した重さで置いた。
船底を支える石のように。
「だから、ありがとうを言い終わったあとも――」
アディーの口元が、ほんの少し上がる。「まだ、時間はたくさんあります」
その言葉を聞いた瞬間。
Annaの手が反射的にきゅっと縮まった。すぐに力を抜く。『行くつもりはない』その言葉に。
身体が勝手に反応したようだった。
「行かないなら……」Annaは小さく俯く。何かを言いかけ。止まる。どうして行かないの?確かに疑問だった。知りたい。でも。自分には関係ないことなのだとも思う。
「行かないなら……もう少し、話してもいいのかもしれない……」
ほんの少し笑った。「そういう機会があれば……」アディーはその笑みを見た。深くはない。明るくもない。蝋燭へ火をつけたばかりのときのような笑み。炎はまだとても小さくて。
息を吹きかければ、すぐに消えてしまいそうだった。でも。本物だった。ここ数日のAnnaが見せた笑顔の中で、一番、本物だった。
アディーの胸の奥が、強く、小さく締めつけられた。
何も言わない。俯き。Annaが握ったせいで裙についた皺を、指でゆっくり伸ばす。一度。二度。まるで、それがとても大切な仕事であるかのように。
それから立ち上がり。扉へ向かう。もう手を取っ手へかけたところで。振り返った。「お嬢様」風にさらわれそうなほど軽い声。
Annaが顔を上げる。アディーの目には、長い年月ずっと彼女を支えてきた深い優しさがあった。
そして。本人も気づいていないほど僅かに。
彼女のために嬉しく思っている湿った光が浮かんでいた。「あの方が、どうして行かないのか……」一度止まる。
「会ったら、ご本人に聞いてみればいいんですよ」
そう言うと、扉を静かに開けて外へ出た。
その言葉だけを、部屋に残して。Annaと。
Annaの中で今、ようやく灯ったばかりの。
とても小さな炎と一緒に。Annaは鏡台の前へ座ったまま。
鏡の中の自分を見ていた。
アディーの言葉を考える。会えば。本人に聞ける。でも。もう行かないのなら。本当に、その理由を知る必要があるのだろうか。
……少しだけ。気になる。塔の上に自分が立っていたことと。彼がここへ留まることに。一体どんな関係があるのか。
今は。ただ静かに待つ。アディーが戻ってくるのを。そして。二人がまた会う、その時を。
________________________________城東の朝には、まだ昨夜の冷たさが残っていた。石畳には薄く露が降り、踏むとほんの少し滑る。ジェフリーは宿の外にある長椅子へ座っていた。
目の前には温かい粥が一杯。昨日よりは何口か多く食べた。それでも、全部は食べきっていない。
彼は待っていた。
何を待っているのか、分からない。いや。本当は分かっていた。ただ、その『分かっている』ということを、あまりはっきりした形にしなかった。
ぼんやりと胸の中へ置いたまま。そこへ留め。待っていた。椀を脇へ押しやり、昨日まだ歩ききれていなかった路地を見て回ろうと立ち上がりかけた。そのとき。アディーが見えた。ジェフリーは動きを止めた。立ち上がりかけた身体を、もう一度座らせる。
右手の指が膝を一度だけ軽く叩く。
そして止まる。
アディーは彼の前まで来ると、昨日と同じ、答えを隠しているような笑みを口元へ浮かべた。「うちのお嬢様が……」口調は落ち着いていた。まるで、もう決まっていることを伝えるように。
「あなたに会いたいそうです」ジェフリーは二秒黙った。
たった二秒。それから立ち上がった。動きは落ち着いている。急いではいない。でも。迷いは一切なかった。長いあいだ答えを用意したまま。
ただ誰かが質問をしてくれるのを待っていた人間のように。「いつだ」
けれど。その言い方は、質問ではなかった。アディーは彼の顔を見る。
琥珀色の瞳の奥で、何日も燻り続けていた炭火が。その瞬間。ほんの少しだけ高く燃えた。アディーは笑った。ためらいなく答える。「今です」『今です』その言葉を聞いた瞬間。ジェフリーの胸の奥で何かが小さく震えた。彼は自分の姿へ目を落とした。外套は昨日着替えたもの。
まだ十分に整っている。
腰には剣。朝風で髪が数本乱れていた。
ジェフリーは手を上げ、素早くその髪を整えた。本当に僅かな動き。本人ですら、自分がそうしたことに気づいていないかもしれないほど。アディーは見ていた。
笑いを押し込める。かなり苦労しながら。ジェフリーは粥の椀を屋台の方へ少し押した。立ち上がる。琥珀色の目をアディーへ向ける。「行こう」声はいつも通り平らだった。彼はアディーの半歩後ろを歩いた。普段より、ほんの少しだけ歩調が遅い。本人は気づいていない。
ただ足の裏に、言葉にしにくい感覚があった。
薄氷の張った湖を歩いているような。
足取りそのものは安定している。でも。あまりにも軽く。次の一歩を置いたら、氷が割れるのではないかと。そんな感覚。彼女は、ありがとうと言う。
分かっている。最初からそうだろうと思っていた。
それでも右手は、無意識に胸元の隠し袋へ重なった。
布越しに。あの刃の輪郭を感じる。もう何度指でなぞったか分からない。擦れた柄の感触を。
ありがとうと言うなら。受け取ればいい。そのあと。どうにかして。もう少しだけ。彼女から言葉を聞けばいい。________________________________
一方。Annaは部屋でアディーが戻るのを待っていた。すでに整えてある髪を、無意識に何度も指で直してしまう。きれいに見えなかったらどうしよう。そんなことが少し気になっていた。その頃。アディーはジェフリーを連れ、城の入口まで来ていた。
もともとAnnaには、二人は城門の外で会い、話を終えたらそのまま別れると伝えていた。
けれど。それでは足りない。アディーはそう思っていた。ジェフリーのそばへ寄り、小声で言う。
「このあと衛兵には、あなたは公主の礼服を仕立てに来た仕立屋だと言います」それ以上は説明しなかった。
ジェフリーの経歴なら。どう振る舞えばいいか、分かるはずだ。『仕立屋』その言葉を聞いたジェフリーは、自分の腰に下がった剣を一度見た。一秒。沈黙。そして剣を外し、ごく自然に後ろ手でアディーへ差し出した。「持っていてくれ」低く、平らな声。アディーが剣を受け取る頃には、ジェフリーはすでに外套の襟元を整え、袖を半分ほど捲り上げて前腕を出していた。
それから腰元から、昨日途中まで削っていた細い木片を取り出す。掌の上で重さを確かめる。仕立屋は剣を持たない。だが、採寸用の物差しなら持っていてもおかしくない。
木片は物差しではない。けれど遠目には、それらしく見える。
七年間の放浪は、彼に多くのことを教えた。その一つが。身分というものは顔に書いてあるわけではない、ということ。姿勢に宿る。自分が何者だと思って振る舞えば。
他人も、そのように見る。ジェフリーは顔を上げ、アディーへ一度頷いた。行ける。そういう合図。そして歩調を変えた。騎士ほど威圧的ではなく。下働きほど卑屈でもない。卑屈にもならず、偉ぶりもしない。自分の腕前に確かな自信を持つ職人らしい、落ち着いた歩き方。
城門の衛兵の前まで来ると。
ジェフリーはわずかに目を伏せ、アディーへ話を任せた。
自分はその半歩後ろに立ち。指の間で木片を一度転がす。真剣な表情。頭の中で布地の寸法を計算している職人のように。心臓だけは。いつもより半拍ほど速かった。それを顔には出さない。
城門を守っていたのは、四十代ほどの男だった。顔には古い傷跡。姿勢は真っ直ぐで、見るからに長年軍務についてきた者の立ち方をしている。その隣には、もう少し若い、丸顔の衛兵がいた。アディーが近づくと、その若い衛兵はまず彼女の後ろにいるジェフリーを一度眺めた。アディーは前へ出る。表情は自然。長年王族へ仕え、大きな場面にも慣れている者の落ち着きがあった。
「ご苦労さまです」軽く礼をする。卑屈でも。尊大でもない。
「公主殿下付きの侍女、アディーです。こちらは城内でも評判の仕立屋で、殿下のご命令で本日お連れしました。新しい衣装を何着か仕立てるため、採寸をしていただきます」年長の衛兵はすぐには返事をしなかった。アディーからジェフリーへ視線を移し、上から下まで眺める。ジェフリーはその場へ立ったまま。顔を少し伏せ。
二本の指で木片を一度回す。止める。
それから衛兵へ顔を上げる。目には、考え事を邪魔された職人らしい、ほんの少しの苛立ち。
布の寸法を頭の中で組み立てているところへ、余計な時間を取られている。ちょうどその程度。
すぐにまた目を伏せ。木片を指先で転がし始める。若い丸顔の衛兵が、年長の男へ少し身を寄せた。「今日、殿下から通達はありましたか?」年長の衛兵は答えない。ただジェフリーを見続けている。長い。アディーは慌てなかった。袖口から、きれいに折りたたまれた布片を取り出す。
そこには昨夜あらかじめ用意しておいた、公主の居室で普段使われている封蝋の印が押されている。重要な公文書ではない。普段、買い物の一覧などを届けるときに使う程度のもの。でも。印そのものは本物だった。
「母后の命日に備えて衣装を用意する必要があり、時間が足りなくなる前にと、殿下があらかじめお申しつけになったものです」
布片を差し出す。口調は落ち着いている。「もしお二人が通達を確認なさるのでしたら、ここでお待ちします。ただ、殿下の方が……」
わずかに言葉を止める。困ったように眉を下げる。
「殿下のご気性は、お二人の方がよくご存じでしょう?」年長の衛兵は布片を受け取った。見る。印は正しい。アディーへ返し。半歩横へ避ける。「入れ。宮内を勝手に歩き回るな」アディーは礼をして礼を述べた。急ぎもせず。ゆっくりすぎもせず。中へ入る。
ジェフリーも続いた。
年長の衛兵の脇を通り過ぎたとき。古い傷跡のある男の視線が、まだ自分の背中に残っているのを感じていた。でも。振り返らない。手にした木片だけを少し強く握る。足取りは一定。呼吸も一定。
城門の影が、完全に彼の身体を覆うまで。そして。ほんの少しだけ息を吐いた。
城門の内側の空気は、外とは違った。
石造りの建物に特有の。重く。冷たい空気。長いあいだ閉じ込められた何かが、外へ逃げることもできず、ただその場で少しずつ沈殿してきたような。
ジェフリーはアディーの後ろを歩く。歩調は変わらない。けれど。目だけは休んでいなかった。見ている。石床の継ぎ目の組み方。柱と柱の間隔。交代する衛兵の移動経路。どの廊下の角が最も死角になるのか。
どの方角なら、あの廃塔の頂上が見えるのか。
一つずつ。素早く。静かに。頭の中へ入れていく。顔にはまだ。考え事を邪魔された職人らしい表情。でも目だけは。細かな網のように。静かに広がり。静かに閉じていく。そして。廃塔が見えた。ほんの輪郭だけ。
二棟の宮殿の隙間から覗く、その一角。灰色で。
古く。周囲の精巧に作られた王宮建築から、完全に浮いている。まるで忘れられた。
場違いな一本の歯。ジェフリーの足が半拍だけ止まった。そしてまた歩く。アディーが横顔だけを少し向け。彼にしか聞こえない声で言った。
「もうすぐです」ジェフリーは答えなかった。手の中の木片を軽く握る。粗く。確かな感触。それを頼りに、呼吸をもう少し深く落ち着かせる。これまで。
数え切れないほどの街を歩いてきた。数え切れないほどの壁を越えた。知らない場所で眠り。危険な場所で目を覚ました。それなのに。
こんなにも長く感じる道は、一度もなかった。歩調そのものは遅くない。でも、一歩一歩が。妙に重い。
どこへ続いているのか。
自分でもまだ説明できない道を歩いているように。琥珀色の瞳はアディーの背中を見る。そして、その向こう。
廊下の突き当たりにある扉へ。彼女は。あの中にいる。その考えを胸の奥へ押さえ込む。
重さを全部、足の裏へ。ただ歩く。一歩。また一歩。そして、もう一歩。アディーが扉の前で止まった。
手を上げ。軽く三度。叩く。その音は廊下へ静かに広がった。小さな音。なのに。ジェフリーの胸の中では、三度の音そのものよりずっと重く響いた。
彼はアディーの半歩後ろに立っている。指先で回していた木片を止めた。静かに。呼吸は一定。肩の力も抜けている。顎も強張っていない。
いつも自分を落ち着かせるために使っているものを、全部使った。慣れている。ただ。
木片を握っている指の関節だけが。
普段よりほんの少し白かった。アディーの声が、扉越しに静かに届く。「お嬢様。お連れしました」廊下が一瞬。静まった。その一瞬。ジェフリーの視線が少し下がる。
扉の隙間。板の木目。敷居の石の継ぎ目。本当は。何を見ているのか自分でも分からない。ただ。目を置く場所が必要だった。
宙を見るより。
そこへ置いた方が少しだけ安定する。今。彼女はどんな顔をしているのだろう。塔の上で見た。
疲労よりも深い、あの静けさか。それとも。別の何か。
七年間追い続けた夢の人物は。一度も正面を向かなかった。Annaとは二度会った。二度とも。光の足りない場所だった。一度目は夜。
二度目は、夜が明けきる前の薄明かり。
廊下へ差し込む昼の光の中なら。
彼女は。どんな顔をしているのだろう。
扉が開いた。アディーが開けたのではない。
内側から。ジェフリーは顔を上げた。部屋の窓から差し込む光が、扉の周囲を明るく縁取っている。
その光の中に。彼女がいた。記憶の中より、少し小さく見えた。あるいは。城門の外で待っていた時間の中、頭の中で何度も何度も彼女を描きすぎたのかもしれない。あまりにも大きく。あまりにも重い出来事として。でも。今、目の前に立っているのは。本物の。とても若い少女だった。その目には、ジェフリーにはまだ名前をつけられない何かが浮かんでいる。
心臓が一度跳ねた。強くはない。でも。はっきりと。
ジェフリーは話さなかった。
ただ、そこに立っている。まず彼女に見てもらう。まず彼女に話してもらう。すべての主導を彼女へ渡す。塔の上でそうしたのと同じように。奪わない。迫らない。
ただそこにいて。待つ。琥珀色の瞳が、彼女の顔へ静かに落ちている。軽く。安定して。七年間歩き続けた人間が、待つことそのものを習慣へ変えてしまったような忍耐を持って。
ただ。
口元だけが。ほんの僅かに。曲がった。扉を開けたAnnaは、目の前にジェフリーが立っているのを見て、大きく驚いた。待っているあいだ。何度も自分の身なりを整えた。きれいに見えなかったらどうしよう。城門の外へ出たら、風で髪が乱れるのではないか。
そんなことまで心配していた。なのに。全部。まるで笑い話だった。「か、彼……どうしてここに……?」声を抑えようとした。それでも動揺までは隠しきれない。
「アディー。城門の外で話して、それで終わりって言ったでしょう?」アディーはジェフリーの後ろに立っていた。
表情はあまりにも自然。最初から何の企みもなかった人のように。「城門の外は風がありますので」極めて真面目な口調。
後ろめたさなど欠片もない。「お嬢様はお怪我をされています。風に当てるわけにはいきません」Annaが睨む。アディーはその視線を真正面から受け。ほんの少し礼をした。
長年磨き上げてきた。欠点の見つからないほど完璧な、侍女の恭しい表情。「お茶をご用意してまいります」そして。ジェフリーの脇を通る。Annaの脇も通り過ぎる。
そのまま廊下の奥へ歩いていった。足取りは軽い。
水面へ落ちる葉のように。罪悪感など一片も残さず。曲がり角の向こうへ消えた。廊下には。
ジェフリーとAnnaだけが残った。
ジェフリーは、アディーが消えた方向を一秒見た。それから。Annaへ視線を戻す。慌てている。その小さな事実を、彼は胸の内へしまった。口にはしない。ただ手元の木片へ一度目を落とし、ごく自然に袖の中へしまう。
何もなかったように。顔を上げ。彼女と目を合わせた。口元のほんの僅かな弧が。さっきより少しだけ深くなる。からかっているわけではない。たぶん本人すら気づいていない。
抑えきれずに滲んだ、ごく薄い温かさ。「お邪魔します」低く。落ち着いた声。
少し申し訳なさそうではあったが。半歩も後ろへは退かなかった。Annaはしばらく黙った。今。言えばいい。言い終えれば。彼は帰れる。そう思うのに。
その場へ立ったまま。唇だけが少し開き。
一言も出てこない。睫毛が小さく震えていた。陽の光の中。
ジェフリーは初めて。彼女の瞳の色をはっきり見た。紫。紫羅蘭の色。これまで生きてきた年月の中で。
これほど多くの場所を歩いてきたのに。
一度も見たことがない色。Annaは数歩、静かに後ろへ下がった。道を空ける。「入って」柔らかな声だった。
ただ。数日前よりも。
理由の分からない震えが、少しだけ混じっている。ジェフリーは固まった。彼女が場所を空けたからではない。
『入って』と言われたからでもない。その目。紫羅蘭色。七年間。大陸の砂漠を歩いた。北方の凍った川を渡った。南境の密林で道を失ったこともある。いろんな色の目を見た。海の色。夕暮れの鉱石の色。春先に溶け始めた雪解け水の色。けれど。こんな色は。一度も。紫羅蘭色。
夢の中にしか存在しないと思っていたような色が。
今。本当に。静かに。どこから来るのか分からない震えを含んで。彼の目の前にある。ジェフリーの呼吸が。ごく静かに。
一秒。完全に止まった。そして視線を伏せる。その一瞬の動揺を、素早く押し込める。でも。完全には隠せなかった。耳の付け根が。また少しだけ熱くなる。ジェフリーは足を上げ。敷居を越えた。
部屋へ入る。彼女の脇を通るとき。
二人の距離は腕一本ほどしかなかった。Annaの方から。とても淡い香りがする。何の香りかは分からない。朝。窓辺へ新しく飾られた花のような。強くはない。でも。確かに存在している香り。ジェフリーは部屋の中央で止まった。
周囲を無遠慮に見回したりはしない。ただ。もう一度顔を上げ。彼女を見る。「顔色」
声は廊下にいたときよりも少し小さかった。意識して音量を落としたような声。「あの日より、少し良くなったな」本心だった。そう言ったとき。
その目の奥には。静かで。それでも隠しきれない。本人にも説明できないほどの、ほんの小さな安堵があった。
自分の顔色について言われ、Annaは反射的に頬へ手を当てた。今の自分。ちゃんと、きれいに見えているだろうか。
心の中で何度も問いかける。
誰に尋ねているのか、自分でも分からない。それでも。浅く笑った。数え切れないほど退屈な宴席を経験する中で身につけた。礼儀としての社交的な笑み。
「おかげさまで」淡々と答える。少しよそよそしい。少し緊張している。けれど。言ったあとで、自分でも何か違うと思ったのか、一瞬止まった。
もっと親しく。もっと温かく話すべきなのではないか。何より。命を救ってくれた相手なのだから。
「どうぞ、座って」Annaはソファのそばへ下がった。淡い紫と深い紫を組み合わせた、彫刻の施されたソファ。
ジェフリーが座るのを待つ。部屋そのものも。上品で柔らかな紫を基調に整えられていた。
まるで。彼女の目と同じ色のように。ジェフリーは、Annaが自分の頬へ触れた仕草を見ていた。その小さな動きは、一粒の石のように。
彼がまったく警戒していなかった心のどこかへ、そっと落ちた。
小さな波紋が。一つ。広がる。何も言わない。彼女についてソファへ向かい、示された場所へ座った。動きは自然。背筋は伸びている。
初めて王族の寝室へ足を踏み入れた男には見えない。七年間の放浪の中。草の上で眠った。廃屋になった穀倉で夜を過ごした。流浪の騎士として、小さな領主の屋敷へ招かれたこともある。『自分の居場所ではない場所でも、何事もない顔で座る』
そんなことは、とうに本能になっていた。それでも。腰を下ろした瞬間。目が、ソファの色へ落ちる。淡い紫。深い紫。彫刻。彼女の目と同じ色。そのことを。ジェフリーは心の中へしまった。静かに。
丁寧に。顔を上げる。ソファの脇に立つAnnaを見る。薄い笑み。少し距離のある笑い方。無数の場面で、何度も教え込まれてきた人間の笑み。ジェフリーはそういう顔を何度も見てきた。一目で分かる。でも。
指摘はしなかった。肘を膝へ置き。
少しだけ前へ身体を傾ける。『座っている』姿勢から。『話を聞いている』姿勢へ。声は低く。穏やか。「『おかげさまで』って」少し止まる。口元へ。あるかないかほどの弧。「普段の君の話し方には、あまり聞こえない」琥珀色の目はAnnaの顔へ向けられていた。問い詰める目ではない。ただ。
見えていることをそのまま口にしただけ。静かに。彼女をよく見ている人の視線。ジェフリーは待っていた。彼女が。宴席で覚えたその笑みを。少しだけ手放すのを。
Annaの身体が一瞬止まった。
それから自分も腰を下ろす。ただし。ジェフリーとは別のソファ。ほとんど対角線上になる位置。わざと選んだ距離だった。どうしてなのか。本人にも分からない。
彼へ近づくのが。少し怖かった。
何かを見透かされるような気がする。Annaは誰に対しても、時々そう感じることがあった。でも。ジェフリーに対しては、特に強かった。
「いいえ。私はいつもこういう話し方よ」もう一度答える。礼儀正しい話し方。それもまた。幼い頃から完璧に訓練された人形のように。
そして。突然。静かになった。何を言えばいい?
何を。話せばいいの?ジェフリーは。
『私はいつもこういう話し方よ』という言葉を聞いても。否定しなかった。ただ彼女を見る。
対角線上へ座ったこと。その距離を選んだこと。言い終えた瞬間。まるで張りつめた弦が、突然どこへ向かえばいいのか分からなくなったように。Annaが黙り込んでしまったこと。少し。途方に暮れている。
ジェフリーは。
本当は少し笑いたかった。嘲る笑いではない。あまりにも本物で。珍しいものを見たとき。胸の奥から勝手に滲んでくるような。小さな温かさ。
彼は急いで沈黙を埋めなかった。何秒か。
そのままにしておく。そしてようやく。ずっと前から始まっていた会話の続きをするように。低い声で。少し気軽に。口を開いた。「背中の傷」一度止まる。「まだ痛むか?」その言葉を口にしても。目は逸らさなかった。
礼儀として尋ねているのではない。本当に知りたい。本当に聞いている。そこには。本人も気づいていないかもしれないほどの。隠しきれない気遣いがあった。ありがとうの話ではない。三か月の話でもない。ジーロングのことでも。国王の書斎のことでもない。彼が聞いたのは。ただ。
その一つだけだった。

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