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Ch10.雨音の中のあの一言

彼が誰かを探していると聞いた瞬間。アンナの身体が、わずかに震えた。胸の奥に。なぜなのか、自分でも分からない。


妙に酸っぱいような。ひどく落ち着かない感覚が広がった。「その人……きっと、とても大切な人なのね」淡々と言う。そして。


少し前まで縮まっていた距離を戻すように。身体をまっすぐ起こした。「早く見つかるといいわね」そう言ったあと。無意識に。下唇をほんの少し噛んだ。気づかないほど。小さな動き。


「アディー、お茶を用意するって言ってたのに……遅いわね。ちょっと呼んでくる」立ち上がる。


部屋から出ようとする。


ほんの少しだけ。ここから逃げたかった。どこから出てきたのかも分からない。

胸の奥の酸っぱさを。一度。落ち着かせたかった。七年も探していた。きっと。ものすごく大切なんだ。アンナが立ち上がった瞬間。


ジェフリーは口を開いた。「アンナ」たったそれだけ。とても軽い。でも。正確だった。彼女が立ち上がる動きと。踏み出そうとした一歩のあいだへ。細い糸のように落ちた。止めない。ただ。そっと引くだけ。彼は。彼女が止まるのを待った。振り返るのを。あるいは。


その両方を。それから続ける。声は低い。今日の午前中。一度も使わなかったような。まっすぐな声。「俺が探している人は……」長く。止まる。「ほかの誰かじゃない」それ以上は言わなかった。ただ。その言葉を。そこへ置いた。まだ彼女が背を向けている、その瞬間へ。彼女自身もまだ気づいていない。


淡い胸の痛みの中へ。琥珀色の瞳は。彼女の背中へ静かに落ちている。


迷いはない。確かだった。七年待った人間が。


ようやく答えを。あるべき場所へ置いたように。アンナは。扉の前で足を止めた。扉を開けようとしていた手も。そのまま止まる。ほかの誰かじゃない?


どういう意味?自分の知っている人なの?「誰?」少し止まる。それから。柔らかな笑みを浮かべて振り返った。ジェフリーを見る。「私の知っている人なら、手伝えるかもしれないわ」


ジェフリーは。彼女が振り返るのを見る。その柔らかな笑みを見る。『手伝えるかもしれない』そう言うのを見る。長いあいだ。黙っていた。長すぎて。その穏やかな笑みが。少しずつ。不安そうに変わっていくほど。


彼は立たなかった。


ただ。そのまま座っている。琥珀色の瞳で。とても静かに。とても真っ直ぐに。彼女を見る。そして口を開いた。今日の午前中。どの言葉よりも。軽い声。でも。一番はっきりしていた。「君だ」それだけ。夢のことは説明しない。七年のことも。ずっと彼についてきた。

顔の見えない曖昧な輪郭のことも。説明しない。塔の上。あの朝。彼女のそばへしゃがみ。その目の中に何かを見た瞬間。


自分の心臓が一度。強く鳴ったことも。ただ。『君だ』それだけを。二人の間へ置いた。


とても安定して。迷いなく。ずっと前から。

もう確認していたことのように。ただ。口にするのが。今になっただけ。


琥珀色の瞳が。彼女の顔へ落ちている。その柔らかな笑みが。ゆっくり。その二文字を理解するのを待っている。アンナの右足が。後ろへ。きっちり一歩。下がった。身体を支えるために。「え?」多くもなく。少なくもなく。出てきたのは。その一言だけ。ジェフリーは。彼女が一歩下がった瞬間を見た。


その『え?』を聞いた。耐えた。本当に。かなり頑張って。笑いそうになるのを。胸の一番深いところまで押し込んだ。けれど。口元の線は。どうしても。ほんの少しだけ。上がった。顔を伏せる。親指を口元へ当てる。


何か考えているふりをする。その弧を隠すために。二秒。黙る。それから。もう一度。顔を上げる。いつもの静かな表情へ戻っている。ただ。目尻だけ。まだほんの少し。


消しきれない温かさが残っていた。同じ言葉は繰り返さない。説明もしない。扉の前で。一歩下がって立っている彼女を見る。とても穏やかな声で。


「もう少し後ろへ下がるか?」

からかっているわけではない。ただ。あまりにも本物で。


あまりにも珍しいものを目の前で見たとき。

胸の奥から。

どうしても零れてしまう。そんな。隠しきれない。小さな温かさ。

彼は待った。アンナが。今までの会話を。

全部。飲み込むのを。彼は。


自分の様子を気にしていた。アディーと一緒に。自分のための菓子を買った。最初に会った日から。城東へ残っている。七年探していた人は。自分。そして。彼が行けなくなった理由も。自分。だから。アディーはずっと。何かを暗示していた。


全部が繋がった瞬間。アンナの顔が。一気に赤くなる。どうしていいか分からない。だから。くるりと背を向ける。扉を開ける。


外へ飛び出す。そして。また扉を閉めた。少し慌てて。少し大きな音で。ジェフリーだけを。部屋に残して。でも。彼女は去っていなかった。扉のすぐ外。背中を扉へ預けて。止まっている。心臓が。速い。自分ではどうにもできないほど。扉の閉まる音が。部屋の中へ響いた。ジェフリーは。


そのまま座っている。


閉じた扉を見る。きっちり三秒。沈黙。それから。顔を伏せる。肘を膝へ置く。両手の指を組む。重ねた親指を。口元へ当てる。目を閉じる。笑いそうになるものが。胸の中を。一周する。二周する。


そして。笑った。


とても小さく。低く。声にはならない。胸の中だけ。でも。肩がほんの少し揺れた。隠せなかった。自分でも予想していなかった。深いところから。転がり上がってきた。本物の。言葉にできない。温かい笑い。


逃げた。ジェフリーは。組んだ手の甲へ顔を埋める。深く息を吸う。笑いを押さえる。だいたい。七割くらいは。なんとか戻した。それから。もう一度。身体を起こす。扉を見る。足音が。遠ざかっていない。


聞けば分かる。彼女は。まだ扉の向こうにいる。視線を下げる。ローテーブルの上の。ペーパーナイフを見る。少し黙る。


そして。低い声で言う。ちょうど。扉を通って届くくらいの声。「俺は逃げない」一度止まる。「そんなに勢いよく閉めなくてもいいだろ」


扉の向こうから。ジェフリーの声が聞こえた瞬間。


アンナの心臓が。強く跳ねた。胸元を押さえようと。慌てて手を伸ばす。でも。その手が。扉の取っ手へぶつかった。「っ……あ……」赤くなった手首の近くを。そっと擦る。通りかかった使用人は。一度だけ。彼女を見る。でも。誰も。どうしたのかとは聞かなかった。彼は。自分を探していた。それって。どういう意味?ジェフリーは。扉の向こうで。


軽い衝撃音を聞いた。続いて。小さく押し殺した。痛そうな息。眉間が。ほんの少し動く。立ち上がった。慌ててではない。ただ。自然に。本能のように。扉へ歩く。向こう側で止まる。手を。静かに取っ手へ置く。


すぐには開けない。そのまま。低い声で尋ねる。


さっきまでにはなかった。隠すつもりもない。はっきりした心配。「どこをぶつけた?」向こうから。返事はない。急かさない。ただ待つ。額を。そっと扉へ当てる。冷たい木の感触。胸の中で。ずっと燃えている熱を。少しだけ。冷ましてもらう。今。彼女はどんな顔をしているんだろう。


きっと。すごく可愛い。その考えを。押し込める。


軽く咳払いする。もう一度。声を出す。さっきより。少しだけ優しい。本人は。気づいていないかもしれない。


「君が扉の前に立ってたら、俺も出られない」一度止まる。そして。息のような声。「入ってくるか」「俺が出るか」「選んで」声が。すぐ扉の向こうにある。アンナには分かった。


近づいてきた。でも。扉を開ければ。真正面から。彼と向き合わなければならない。


開けなくても。彼が開ける。結局。同じ。違うのは。城の中の誰かに。妙なところを見られるかどうか。表向き。ジェフリーは。仕立て屋という偽の身分で。


城へ入っている。彼が扉を開けて外へ出て。

自分を中へ引っ張るところを。


誰かに見られるほうが。よほどおかしい。「だめ」恥ずかしそうな声。少し震えている。「あなたは出ちゃだめ」「私が……入る」取っ手を握る手には。汗。回す。でも。


すぐには押さない。細い隙間から。ジェフリーの影が見える。止まる。それから。彼の匂い。彼の匂いがする。心臓が。また速くなる。『私が入る』その声を聞いて。ジェフリーは。


扉から身体を離した。半歩下がる。彼女が入るための場所を空ける。でも。遠くへは行かない。その場に立って。静かに。扉の隙間が。少しずつ広がるのを待つ。一筋。扉が開く。視線を下げる。ちょうど。


その隙間と合う。そこにいる。


彼女の横姿。取っ手を握っている手の甲には。少し赤い跡。すぐに押し開けない。でも。急かさない。ただ。隙間が広がった瞬間。胸の奥で。何かが。ほんの少しだけ。緩んだ。長いあいだ張られていた弦が。音もなく。少しだけ緩むように。息を吐く。


小さく。ほとんど。音はない。そして。扉が開いた。ジェフリーは。入口から一歩の場所へ立っている。動かない。琥珀色の瞳が。上から下へ。彼女へ落ちる。取っ手を握っている手。少し下を向いた顔。そして。はっきり赤くなっている。耳の付け根。全部見た。本当に。全部。でも。


言わない。静かに立ったまま。口元の線を。まっすぐに保つ。何も起きていないような顔をする。


「入って」極めて静かな声。でも。はっきり聞こえる。視線が。彼女の手首へ落ちる。取っ手にぶつけて。赤くなっている場所。瞳の色が。少し変わる。「見せて」アンナも。手の赤みに気づいた。一瞬。背中へ隠そうとする。


「平気よ……」部屋へ入る。もう少しで。ジェフリーの胸へ触れそうな距離。もう片方の手で。扉をそっと閉じる。


本当は。


隠すつもりだった。でも。なぜか。手を。ジェフリーへ差し出した。唇も。少しだけ。尖っている。「ちょっと、ぶつけただけ……」甘えている。無意識に。


父親へ甘える娘のように。あるいは。愛する男へ。自然に甘える女のように。本人には。まったく自覚がない。ジェフリーは。差し出された手を見た瞬間。


ほんの半秒。止まった。気づかないほど短い。でも。確かに。止まった。少し尖った唇。

『ちょっと、ぶつけただけ』その言い方。


当たり前のように。自分へ手を差し出す動き。予想していなかった。七年間。夢の中で。想像の中で。何度も。彼女という存在を思い描いた。でも。こんな彼女は。一度も。なかった。そして。この姿が。どの姿よりも。耐え難いほど。胸へくる。ジェフリーは。顔を伏せる。呼吸を。静かに押さえる。手を伸ばす。彼女の手首を取る。二本の指を。手首の骨の両側へ。そっと当てる。赤いところを。光のほうへ向ける。壊れやすいものを。


手にしているように。とても。優しく。親指が。赤くなった場所の縁を。ゆっくり。ほんの一度。撫でる。痣になっていないか。確認する。そして。ようやく口を開く。声は低い。平らに抑えられている。でも。その平らさには。一本。


細い裂け目があった。そこから。抑えきれない何かが。少しだけ。滲んでいる。「皮は切れてない」少し止まる。でも。手は離さない。視線が。手首から。ゆっくり。


上へ。まだ赤い耳。少し尖った口元。そして。最後に。瞳。喉仏が。一度動く。本人さえ気づいていない。その甘さ。無意識に零れている。柔らかさ。針のように。


静かに。胸の一番柔らかいところへ。刺さる。動けない。顔を伏せる。まだ自分でさえ。完全には飼い慣らせていない。瞳の奥の。熱いものを隠す。さらに。声を小さくする。ほとんど。自分へ言っているように。「次はちゃんと前を見て歩け」「ち、違うの……その……」説明しようとする。前を見ていなかったから。


ぶつかったわけじゃない。心臓が速すぎて。

息まで。少し苦しくなって。胸へ手を当てようとしたら。


間違えて。取っ手へぶつけた。でも。それを言えば。

何かに気づかれる。「……あ、もういい……」「う、うん……そうね……次はちゃんと見る……」そのまま。彼の言葉へ乗った。ジェフリーは。まだ手を持っている。アンナも。引かない。これが。二人が。本当に触れ合った。最初だった。ジェフリーは。途中で飲み込んだ言葉に。


気づいている。何を飲み込んだのかも。分かる。特別。頭がいいからではない。ずっと。彼女を見ていたから。


息を吸ったことも。何か言おうとしたことも。言わずに。最後は。自分の言葉へ乗ったことも。全部。見えた。小さく負けを認めるような。その動き。自然で。どうしようもなく。心が柔らかくなる。でも。何も言わない。ただ。顔を伏せたまま。二人が触れているところを見る。彼女の手首。


そこを挟んでいる。

自分の指。七年。いくつの朝を歩いた。いくつの夕暮れを越えた。名前も知らない町を。


いくつ通った。夢の中で。何度も彼女を見て。目が覚めれば。何も掴めなかった夜が。いくつあった。そして。今日。彼女の肌の温度が。指の腹へ。こうして乗っている。本物。あまりにも。本物で。一瞬。どう息をすればいいのか。分からない。


親指は。動かさない。動けば。この。全部が本当だという感覚が。壊れてしまう気がした。その姿勢のまま。長いあいだ。何も言わなかった。部屋は静か。遠く。


城のどこかから。人の声だけが。かすかに届く。そして。ようやく。


少しだけ。掠れた声。本人は。気づいていないかもしれない。「アンナ」名前を呼ぶ。『君』ではない。『姫様』でもない。ただ。アンナ。彼の喉から。とても軽く。転がる。指が。ほんの少しだけ。


彼女の手首を。強く包んだ。自分の名前を呼ばれる。


アンナ。そう呼ぶのは。彼だけ。その声へ反応するように。手が。ほんの少し動いた。彼の掌の中で。肌が擦れる。「ん?」小さく返事をする。でも。正面からは。なかなか見られない。見れば。また。


息ができなくなりそう。その瞳に。見つめられたら。自分が。もっとおかしくなりそう。手首が。彼の掌の中で。ほんの少し。動いただけ。肌と肌が。


軽く擦れただけ。

それなのに。ジェフリーの胸が。一瞬。強く締まった。何かを。急に引かれたように。すぐには。何も言わない。顔を伏せたまま。彼女が引かなかった手を見る。手首に残っている。まだ消えきらない赤み。そして。ゆっくり。顔を上げる。彼女は。こちらを見ていない。少し横へ向けた顔。


睫毛の弧。耳の付け根の赤み。さっきより。もっと深くなっている。


本人は隠したいのに。どうしても隠せないものが。皮膚の上へ。そのまま広がっている。一目で。分かる。ジェフリーの心臓が。重く。ゆっくり。一度。落ちた。七年。七年探した。見つけたときって。こういうものなのか。


彼女へ。こちらを見ろとは言わない。ただ。とても自然に。手首を二本の指で持っていた形から。掌全体へ変える。彼女の手を。包む。強くはない。でも。安定している。何かを伝えているように。でも。何も言わない。少しの沈黙。それから。


静かな声。平ら。でも。その中には。小さな亀裂。「俺を見ないな」


責めていない。ただ。観察したことを。そのまま言っただけ。


軽い事実。でも。声の中で。何かが。待っていた。『俺を見ないな』その一言で。アンナは。また慌てた。見ない。確かに。怪しい。でも。見たら。息が止まりそう。「見てるわよ」少し。意地を張る。それから。ゆっくり。顔を上げる。白い頬が。どんどん。赤くなる。


恥ずかしさで。目元まで。薄く赤い。胸を。妙にくすぐられるような。柔らかい顔。視線が。一度揺れる。そして。わざと。窓の外を見る。「なんだか……」「雨、降りそうね……」顔を上げた瞬間。ジェフリーは。動けなかった。何かに。身体ごと止められたように。真っ赤になった顔を見る。頬から。目元まで。


白目にさえ。ほんの少し。薄い桃色。掌の中で。長いあいだ温められた花のように。あまりにも。柔らかくて。


目をどこへ置けばいいのか。分からない。


それから。彼女の視線が。窓へ移る。ジェフリーは。顔を伏せる。胸の中から。零れそうになったものを。押し戻す。雨が降りそう。彼女は。雨が降りそうだと言った。ゆっくり。身体を起こす。


窓の外から。視線を戻す。彼女の横顔へ。静かに。少しのあいだ見る。口元の線が。ほんの少し。ほとんど分からないほど。動く。天気の話へは。乗らない。親指が。彼女の手の甲を。一度だけ。


軽く撫でる。それから。低い声。少し。わざと。何かを待っているように。「そんなに顔が赤いのは、天気のせいか?」待つ。強がるのを。違うと言うのを。また。こちらを見ないのを。


まだ本人が認めていないもの。赤い顔の中に。


速い心臓の中に。全部。隠れているもの。彼には。


時間がある。七年。待った。いくらでも。待てる。顔が赤い?まさか。アンナは。心の中でそう思った。「私、顔赤い?」何でもないように。頬へ手を当てる。うん。熱い。かなり。「ア、アレルギーじゃない?」


「雨が降りそうだから……」理由を作る。破綻しているかどうかなんて。もう。どうでもいい。ジェフリーは。一秒。黙った。本当に。一秒だけ。それから。笑った。今度は。本当に。押さえなかった。胸の奥から。小さく。低い笑い声。本人も気づいていない。少し。甘やかすような弧が。


その声にはあった。


目尻へ。浅い皺が寄る。琥珀色の光が。何かに温められて。


内側から透けたように。雨でアレルギー。いろんな言い訳を。聞いてきた。でも。これは。初めて。顔を伏せる。笑いが。胸の中を一度。転がる。それから。もう一度。彼女を見る。まだ熱い。まだ赤い。まだ。何でもないふりを。


頑張っている。少し掠れた声。笑いが。まだ残っている。「雨が降ると、顔が赤くなるのか?」わざと。分かっている。誤魔化していることも。


その理由が。無理だということも。全部。分かっている。でも。聞く。どう返すのか。見たいから。親指は。手の甲で止まる。もう動かさない。でも。掌は。彼女の手を包んだまま。離さない。温かさを。


隠しきれない目で。静かに見る。「アンナ」一度止まる。「俺は信じない」信じない。そう言われて。アンナは。顔を伏せた。そして。そこで初めて。二人の手が。繋がったままだと気づく。掌。指の節。硬い。剣を長く握ってきた人間の。厚い胼胝。王宮の騎士たちにも。同じものがある。


見たことがある。でも。彼の手は。嫌ではない。あの夜。書斎で。父と縁談の条件について話したとき。アンナは言った。ジーロング王子が。自分の身体へ触れるなら。死んでみせる。


ジーロングに触れられるくらいなら。死んだほうがいい。でも。ジェフリーは。嫌じゃない。むしろ。安心する。


「あなたが信じないからって、私に何の関係があるの……」小さな声。でも。その手は。無意識に。彼の指の節を。少しだけ。摘むように握った。ジェフリーは。感じた。本当に。軽い力。本人は。自分がしたことすら。気づいていないかもしれない。でも。はっきり。感じた。掌へ。小さな石が一つ。音もなく。水へ沈むように。なのに。


胸の中では。波紋が。一周。また一周。なかなか。止まらない。動かない。動けば。彼女が。自分のしたことへ気づく。


そして。手を引くかもしれない。引いてほしくない。顔を伏せる。落ちている髪を見る。俯いた横顔。離れない手。口元の弧を。長いあいだ。押さえた。でも。完全には。戻らない。喉仏が。小さく動く。胸の中の。熱い息を。静かに吐く。「関係ある」低い声。


まるで。部屋そのものから。返ってきた響きのよう。急がない。でも。しっかり。「君の顔が赤いのは、俺と関係ある」ゆっくり。本当に。ゆっくり。


指を。返す。彼女が。自分の指を掴んでいる手。その全部を。掌へ包む。指と指が。重なる。絡む。強くはない。でも。離れない。無言の何か。本人にも。それが宣言なのか。約束なのか。まだ分からない。心臓は。


重い。でも。安定している。七年。初めて。自分が。本当に存在する場所へ。立てた気がした。二人の指が。


絡み合う。その瞬間。アンナは。胸の中が。満たされたように感じた。心が。重くなる。本当に。重さがあるように。アディーでさえ。ここまで。いっぱいに。重く。満たすことは。


できないかもしれない。これは。何?もっと。触れたい。もっと。話したい。


まだ。時間が。


たくさんあるように思う。外では。雲が集まり。部屋の光が。少し暗くなった。風が。帷の端を持ち上げる。湿気。本当に。雨が降りそうだった。


ジェフリーは。そのまま立っている。指を絡ませたまま。何も言わない。動かない。ただ。二人の間へ。静けさが。ゆっくり。沈んでいくのを。そのままにする。安定した。本物の。重さになるまで。彼女の手。細い指。自分より。ずっと小さい掌。包んでしまえば。ほとんど見えない。でも。逃げない。指は。緩く。自分の掌へ。乗っている。本人が。まだ認めていない。無意識の信頼のように。胸の中で。何かが。ゆっくり。ほどける。緊張が。


抜けるのとは違う。剣を交えたあと。力が抜けるのとも違う。長い道を歩いて。ようやく。荷物を。地面へ置けたときのような。そんな。ほどけ方。ジェフリーは。ゆっくり。顔を横へ向ける。窓の外。


灰青色の空を見る。「まだ、時間はある」何でもないように。小さく言う。一度止まる。視線を。彼女へ戻す。「ゆっくり、互いのことを知っていけばいい」親指が。彼女の手の甲を。ゆっくり。撫でる。何かの輪郭を。なぞるように。まだ。ここにあると。確かめるように。窓の外。最初の雨粒が。落ちた。一滴。そして。また一滴。すぐに。


雨は強くなった。長く。降り続きそうだった。


「雨……降ってきたわね」アンナが。小さく言う。


何でもないように。でも。そこには。珍しく。少しだけ。嬉しさ。「これなら、急いで帰らなくてもいいわね……」「アディーに言って、空いてる部屋を用意してもらえるわ」「誰かに聞かれたら、雨がひどいから一晩泊めたって言えばいいし」からかうように。笑う。「王家だって、優秀な『仕立て屋』を追い出したりはしないでしょう?」


『急いで帰らなくてもいい』その言葉を聞いた瞬間。ジェフリーの胸で。何かが。小さく跳ねた。あまりにも。何気なく。当然のことのように。小さな話のように。でも。聞こえた。その言葉の下に。隠れている。彼女には珍しい。ほんの少しの。嬉しさ。


視線を下げる。笑いそうになるのを。押さえる。完全には。出さない。ただ。口元の線が。ほんの少し。上がる。『仕立て屋』その言葉で。瞳へ。温かさが広がる。自分でも。気づいていない。少し。からかわれて。心が軽くなったような。「優秀な仕立て屋」


低い声で。もう一度。その言葉を口にする。味わうように。そして。ゆっくり。彼女を見る。笑っている顔。まだ。完全には消えていない。珍しい嬉しさ。覚える。丁寧に。しっかり。七年間。無数の夢を。しまい続けた場所へ。この表情も。入れる。少しして。口を開く。低い声。珍しく。軽い笑いを。ほんの少しだけ。外へ出す。


「それなら、姫様に世話になる」視線を。窓の外の雨へ。親指が。彼女の手の甲を。小さく押す。「ただ……」また。彼女を見る。琥珀色の瞳の奥で。深く。安定したものが。静かに燃えている。「雨が降ってなくても」「俺は帰るつもりはない」アンナは。首を横へ振った。「難しいわ」少し。困ったように。「父は誰のことも信用しないもの」「それに……」一度止まる。


「あなたの仕立て屋っていう身分も、偽物でしょう」そして。少しして。「もしかしたら……雨が長く降るように祈ったほうがいいかもね」雨を理由に。泊めてもらえる。それだけでも。十分。贅沢なことだった。『難しい』父親は。誰も信用しない。


仕立て屋の身分も。偽物。ジェフリーは。反論しない。全部。


本当。この城の中で。自分の立場が。どれほど薄いか。誰よりも。分かっている。紙一枚。少し刺されれば。すぐ破れる。でも。だからといって。退くという考えは。なかった。視線を下げる。窓の外。密な雨。少し。沈黙。それから。ゆっくり。口を開く。平らな声。でも。彼女には。まだすぐには分からないかもしれない。


深い。確信。「七年探した」一度止まる。「一晩泊まるためじゃない」彼女を見る。暗くなった外の光の中。琥珀色の瞳。重い。安定している。火を抱えた琥珀。激しくは燃えない。でも。長く。燃える。「身分なら変えられる」


「理由なら作れる」指が。彼女の手を。ほんの少し。強く握る。声は。さらに低い。彼女だけへ。聞かせるように。七年。ずっと考えて。ようやく。言える言葉。「君がいるところに」「俺もいる」窓の外。雨は。さらに強くなる。ジェフリーは。雨が長く降るように。祈らない。彼は。雨を待つ人間ではなかった。『君がいるところに、俺もいる』その言葉が。アンナの胸を。強く打った。何かが。あと少しで。


開きそう。自分が城にいるから。

彼も。ここにいる。じゃあ。もし。ジェフリーが城の外にいるなら?


自分は。どこにいるべき?「どうして……?」声は。弱い。柔らかい。いつも他人が言う。強気な公主とは。まるで違う。


「どうして……そんなに、私と一緒にいようとするの……?」

もしかしたら。彼の答えで。新しい運命が。見つかるかもしれない。


ジェフリーは。その問いを聞く。その声を聞く。柔らかい。軽い。いつもの彼女からは。考えられないほど。小さく。弱い。


その声が。針のように。胸の一番深いところへ。


正確に。落ちる。一瞬。呼吸の整え方さえ。忘れた。長く。黙る。答えを知らないからではない。答えは。七年間。ずっと。胸の奥にあった。誰にも。言ったことがない。今。それを。外へ出す。一番深い場所から。全部。


きちんと。出すために。少しだけ。時間が必要だった。雨音は。激しい。石畳へ。窓台へ。世界全部を。濡れた灰青の中へ。沈めていく。ゆっくり。身体を。彼女へ向ける。正面から。顔を少し下げる。瞳を見る。まだ。恥ずかしさで。少し赤い目。


でも。今は。真剣。待っている。その目が。分かる。手は。繋いだまま。離さない。そして。口を開く。低い。安定した声。一つずつ。深い場所から。歩いて出てくるように。「君を見つける前から」「毎晩、君の夢を見ていた」一度止まる。「名前も知らなかった」「顔も知らなかった」


「どこにいるのかも知らなかった」喉仏が。一度動く。目の奥の火が。さらに。深く燃える。「でも、その人がいることだけは分かってた」親指が。彼女の手の甲へ。軽く触れる。「だから、七年歩いた」最後。声が。一番小さくなる。でも。今夜。どの言葉よりも。重い。「アンナ」「君は、俺がこの世に生まれてきて、探すための人だ」


『この世に生まれてきた』なんて。重い言葉なんだろう。以前。彼が話していた。魔女だった母親の力を。受け継ぐために。生まれてきたわけではない。彼には。その才能がなかった。自分の人生を。自分の力で。切り開くことを証明するためでもない。違う。この世へ。生まれてきたのは。


彼女を。見つけるため。その言葉が。アンナの中の何かを。


目覚めさせた。もしかすると。これが。自分には一生。手に入らないと思っていた。愛なのかもしれない。「私……」声は。淡い。淡すぎて。胸が痛くなる。「この世界には……私がいることを気にする人なんて、誰もいないと思ってた……」


あまりにも。

静か。あまりにも。冷たい。その冷たさが。何年分もの失望で。


できていることが。分かる。「でも……私……」少し。言葉を探す。「あなたの中で……自分がどんな人に見えてるのか……気になり始めてるみたい……」


「綺麗に見えるのかとか……」「私の話し方が……変じゃないかとか……」ようやく。気づいた。自分も。気にしている。どうして。今朝。鏡台の前で。もうきれいに整っている髪を。何度も。直していたのか。いつの間にか。自分も。心を動かしていた。もしかしたら。塔の上で。


あのペーパーナイフを。彼へ渡したとき。


一緒に。自分の心も。渡してしまっていたのかもしれない。


『この世界には、私がいることを気にする人なんて、誰もいないと思ってた』その言葉を聞いた瞬間。ジェフリーの胸は。強く。掴まれたように。締まった。すぐには。何も言わない。ただ。彼女を見る。そう言ったときの顔。淡い。痛いほど。淡い。それは。穏やかだからではない。長い失望の中で。何度も。削られて。角がなくなったあと。最後に残ったもの。目元が。深く。一度。締まった。彼女は続ける。自分が。彼の中で。どう見えるのか。気になる。綺麗なのか。


話し方は。おかしくないのか。ジェフリーは。聞いている。ずっと。聞く。目の中の火が。ゆっくり。別のものへ。変わっていく。憐れみではない。胸が痛い。深く。重い。胸骨の下へ。沈むような。痛み。そして。少し酸っぱいような。安堵。七年歩いて。よかった。どこかの分かれ道で。違う道へ行かなくて。よかった。見つけられて。よかった。彼女を一人にして。


この世界では。誰も。自分の存在を気にしていない。そう思わせ続けずに済んだ。彼女の手を。一度。離す。アンナは。彼が退くのだと。思ったかもしれない。違う。手を上げる。


ゆっくり。本当に。優しく。二本の指で。彼女の顎を支える。顔を。


自分へ向ける。目と目が。きちんと合う角度まで。横へ逃げられない。顔を伏せられない。もう。床へ向かって。そんな言葉を。言えないように。顔を少し下げる。彼女を見る。声は。掠れている。でも。安定している。一つずつ。ゆっくり。


はっきり。「君は綺麗だ」一度止まる。「君の話し方がおかしいと思ったこともない」親指が。顎の輪郭へ。軽く触れる。「それに、俺の中では……」琥珀色の瞳。完全に。熱を抱いている。その目が。深く。彼女へ落ちる。「君は、俺が歩いた七年を、無駄じゃなかったと思わせる理由だ」窓の外。雨は。激しい。でも。彼の声は。雨よりも。ずっと。安定していた。


その言葉を聞いて。アンナは。もう。感情を止められなかった。


涙が。一気に。溢れた。どれだけ腕の立つ彼でも。目尻から落ちる涙を。拭うのが間に合わないほど。涙は。そのまま。頬を流れる。ジェフリーが。


顎を支えている。その指へ。落ちた。全部。アディーの言った通り。アンナは。ちゃんと話す。アンナは。ちゃんと泣く。そして。泣き始めたら。長いあいだ。抱きしめて。


宥めてあげないといけない。そんな子。何も言えない。ただ。ずっと。泣く。幼い頃。父親の部屋の前で。泣き続けた。


でも。扉は。最後まで。開かなかった。あのときのように。涙を見た瞬間。ジェフリーは。完全に。静止した。どうすればいいのか。分からないからではない。あまりにも。本物だったから。一瞬。ただ。見ることしかできなかった。目尻から。涙が二筋。落ちる。顎を支えている。自分の指の上を。通る。温かい。小さい。


でも。何かの重さのように。掌の奥へ。


沈んでいく。喉が。強く。締まる。彼女は。何も言わない。ただ。泣いている。静かに。無防備に。胸を。何度も。締めつけるように。これは。今日だけの涙じゃない。分かる。何年分。ずっと。閉じた扉の前に立って。ずっと。待って。ずっと。失望して。積もったもの。ただ。今日。本人さえ。思っていなかった場所へ。小さな穴が開いて。全部。そこから。溢れた。ジェフリーは。


何も言わない。顎へ添えていた手を。ゆっくり。離す。それから。身体を低くする。彼女を。腕の中へ。抱き寄せる。片腕を。背中へ。もう片方の手を。後頭部へ。そっと添える。顔を。自分の胸へ。埋めさせる。泣かせる。好きなだけ。

泣けばいい。顎を。彼女の髪へ。軽く置く。髪から。淡い香り。目を閉じる。自分へ預けられた。彼女の重さ。胸の中へ。押し込められた。泣き声。衣服を通して。少しずつ。伝わってくる温かさ。全部。胸の一番深いところまで。落ちてくる。七年待った。


急ぐ必要なんてない。掌が。背中を。


とてもゆっくり。優しく。一度。また一度。撫でる。暗闇の中で。長いあいだ。一人で泣き続けていた人を。あやすように。低い声。胸そのものが。震えているような声。たった。一言。「俺はここにいる」少し。止まる。


「泣いていい」

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Ioanna And Jeffery

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