


序:奇怪的公主流浪的人
夜の帳が、濃い墨を流し込んだかのようにロシニトロ王宮の円屋根を覆っていた。
遠く離れた宴の間から響く弦楽と管楽の調べが、幾重もの石壁を抜け、蚊の羽音ほどのかすかな音となってイオアンナの耳に届く。
彼女は豪奢なビロード張りの寝台から、音を立てないようにそっと滑り降りた。
足が冷たい大理石の床に触れた瞬間、つま先がわずかに縮こまり、身体は本能的に重心を低くする。
揺らめく燭火の淡い黄光の中、彼女の瞳には生き生きとした光が宿っていた。
唇には、誰にも奪うことのできない自由の笑みがひそかに浮かんでいる。
今の彼女は、黄金の籠に閉じ込められた王女ではなかった。
これから夜の中へ飛び込もうとする、一羽の野生の隼だった。
彼女は不慣れな足取りで扉へ近づくと、二本の指を扉板に当て、細い隙間ができるまでゆっくりと押し開いた。
顔の半分を隙間に寄せ、廊下の左右を見回す。
回廊には誰もいなかった。
まるで時そのものに見捨てられた通路のように静まり返り、風のない空気の中で燭火も動かない。
胸の奥に一晩じゅう詰まっていた息が、ようやく音もなくこぼれた。
彼女の笑みがさらに深くなる。
「よかった。誰もいない!」
すぐさま扉を押し開き、スカートの裾を翻しながら左手の回廊へ駆け出す。
その足音は、雪の上をかすめる猫の足ほどに軽かった。
五十歩ほど進んだところで、彼女は曲がり角の手前で急停止した。
勢いのまま、危うく前へよろめきそうになる。
反射的に身をひねり、壁のくぼみへ身体を滑り込ませた、そのときだった。
すぐそばに置かれていた半身像が、彼女の袖に触れられ、ゆっくりと傾き始める。
心臓が大きく縮み上がった。
瞳孔が開き、両手が弦から放たれた矢のように飛び出す。
彼女は倒れかけた石像を寸前で受け止めた。
冷たい石の感触に、手のひらがわずかに痺れる。
口元を手で覆い、今にも唇を突き破りそうだった悲鳴を押し殺した。
胸の内では、鼓動が戦場の太鼓のように激しく鳴り響いている
。
背中には薄い汗がにじんでいた。
危うく死ぬところだった。
そう胸の内で呟きながらも、その瞳の奥には、危機を切り抜けた快感がかすかに光っていた。
回廊の向こう側では、使用人たちが精緻な料理を載せた皿を手に、忙しなく行き交っている。
兵士たちの甲冑が触れ合う澄んだ音も聞こえた。
彼女は息を止め、厚い本の間に挟まれた銀杏の葉のように、身体をできるだけ薄くして壁へ押しつけた。
騒がしい人の流れが遠ざかっていくのを、じっと待つ。
その瞳は狩人のような正確さで、動く人影の一つ一つを追っていた。
足音の間隔を読み、唇をきゅっと結ぶ。
その集中した表情は冷静とさえ呼べるもので、とても深窓の令嬢には見えなかった。
最後の兵士が背を向けた瞬間、彼女は一気に隠れ場所から飛び出した。
スカートの裾が空中に弧を描く。
兵士が振り返る、その一呼吸前には、彼女の姿は回廊の交わる暗がりへと消えていた。
あんな退屈な国宴なんて、絶対に出てやるものか。
胸の内で小さく鼻を鳴らし、彼女は窓枠へ足をかけた。
動きには迷いがなく、流れるようだった。
この脱出経路は、すでに身体の奥深くに刻み込まれている。
どこへ足を置き、どこで力を借り、どの瞬間に体勢を変えるのか。
何度も繰り返した練習によって、すべてが本能となっていた。
彼女は身を躍らせた。
耳元を空気が唸りながら通り過ぎ、スカートの裾が夜の蝶の羽のように広がる。
狭い足場へ正確に着地すると、すぐに両手で外側の石縁をつかんだ。
腕の力で身体を支えながら、壁に沿ってゆっくりと降りていく。
やがて靴先が地面に触れたとき、音はまったくしなかった。
静かな湖面へ、一滴の水が落ちたかのようだった。
彼女は城壁沿いを走り出した。
夜風が長い髪をすべて巻き上げ、黒い旗のように背後で激しくはためかせる。
前方には、輪郭のわずかに歪んだ古い塔が、月明かりの下で静かにそびえていた。
それを目にした瞬間、彼女の眼差しは無意識のうちに和らいだ。
そこには、秘密にだけ向けられる特別な優しさがあった。
遠く離れた旅人が、灯りのともる故郷を見つけたときのような眼差しだった。
彼女は石段を駆け上がる。
一歩一歩を力強く踏みしめ、塔の頂上へたどり着いた。
宴の間から届く喧騒は、夜風によって完全に背後へ置き去りにされた。
「はあ……」
塔の縁にうつ伏せになり、重ねた両手の上へ顎を載せる。
視線は城壁を越え、その先に広がる果てしない闇へと伸びていた。
瞳の奥では、何かが静かに燃えている。
ここは王宮の中でも、最も忘れ去られた場所だった。
石の隙間からは雑草が生え、壁には老人の顔の皺のような染みと亀裂が走っている。
それでも、この場所こそが彼女にとって何より大切な世界だった。
壊れているからこそ、誰も目を向けない。
誰も目を向けないからこそ、彼女はほんのわずかな間、本当の自分として息をすることができた。
「いつか必ず、ここを出ていく」
その声は蚊の羽音ほどに小さかった。
けれど一つ一つの言葉は、岩のように重かった。
言葉は夜風の中へ落ちていく。
そして彼女自身の、心の最も深い場所へと沈んでいった。
石壁の上に身を預け、月を見ながらぼんやりしていたとき、彼女は遠くから馬に乗って近づいてくる人影を見つけた。
初めは蟻ほどの大きさだった影が、城へ近づくにつれて少しずつ大きくなっていく。
彼女はいつしか夢中でそれを眺めていた。
あの人物は、いったいどのような冒険をしてきたのだろう。
そんな物語を、勝手に思い描き始める。
夜風が木々の間を抜け、遠くのどこかで催されている宴の調べを運んでいた。
ジェフリー・グラントは、急ぐでもなく、遅れるでもなく、ロシニトロ城の外周を馬で進んでいた。
まるで時間と何らかの約束を交わしている者のような歩みだった。
彼には目的地がなかった。
いや、正確には、彼の目的地はすべて夢が決めていた。
顔の見えない人影。
何色とも言い表せない一対の瞳。
十四歳のときに起きた大火以来、その姿は毎年のように夢へ現れた。
一本の細い糸となり、彼を一つの街から次の街へと引いていく。
ジェフリーは手綱を引いた。
黒馬が小さく鼻を鳴らす。
何気なく向けた視線が、長いあいだ修繕されていない古塔に止まった。
琥珀色の瞳が、わずかに細められる。
塔の頂上に、人影があった。
衛兵には見えない。
侍女にも見えなかった。
その人物は石壁の縁にうつ伏せになり、重ねた手の甲へ顎を載せ、遠くを眺めている。
まるで、自分が閉じ込められていることに気づいていない鳥のようだった。
ジェフリーはすぐには声をかけなかった。
静かに馬から降りると、手綱を道端の木へ結び、城壁にもたれて腰を下ろした。
そして長いあいだ、塔の上を見上げていた。
彼の沈黙が続くうちに、夜風は何度か向きを変えた。
やがて彼は、低く穏やかな声で一言だけ口にした。
相手の領域へ踏み込む気配はなく、まるで独り言のようだった。
「この時刻なら、街は今ごろさぞ賑やかなんだろうな」
彼女を直接見ることはせず、ただ同じ空を仰いでいる。
左の額に残る古い傷が、月明かりの下で淡く白く浮かんだ。
唇には、あるかないかほどの笑みがあった。
ただ一つの事実を口にしただけのように。
そしてその事実が、偶然にも塔の上にいる誰かと関係していただけのように。
塔の上の人物が、わずかに固まった。
アンナは先ほどまで顎を手の甲に載せていた。
その声を聞き、睫毛を小さく揺らす。
遠くへ向けていた視線をゆっくりと戻し、下を覗き込んだ。
城壁の下に、一人の男が座っている。
衛兵ではない。
身につけている鎧も、王宮の兵士たちのものとは違っていた。
彼女は瞬きを繰り返した。
長くぼんやりしすぎたせいで見えた幻ではなく、本当に存在している人物なのかを確かめる。
「……私に話しかけたの?」
塔の上から声が降ってきた。
風を含んだその声には、少しの疑問と、少しの戸惑いと、隠しきれなかった驚きが混じっている。
そこで初めて、ジェフリーは顔を上げた。
二人の視線が重なる。
彼の琥珀色の瞳は、浅い湖のように静かだった。
無遠慮さも、馴れ馴れしさもない。
ただ一つの事実を、穏やかに確かめるような眼差しだった。
「城の中では宴をやっている。この方角から音がするのに——」
彼は一度言葉を切った。
視線はまっすぐ彼女の顔に向けられている。
「外にいるのは、君ひとりだ」
そう言い終えると、再び黙り込んだ。
問い詰めることもない。
説明を求めることもない。
ただ塔を見上げたまま、その言葉を会話の入口として置いた。
その先を何で埋めるかは、彼女自身に任せるように。
指先は膝の上へ軽く置かれていた。
夜風が深い褐色の巻き髪を一房乱したが、直そうとはしない。
左額の古い傷は、静かに月明かりを受けている。
気だるげでありながら、揺るぎがない。
長いあいだ何かを待ち続けてきた者にも見えた。
同時に、何もかもどうでもよいと思っている者にも見えた。
けれど彼自身だけは知っていた。
塔の上の人影を見た瞬間から、心が不思議なほど静まっていたことを。
夢の中にあったあの瞳が、ようやく一つの輪郭を得た瞬間のように。
彼の言葉を聞き、アンナは少し迷った。
だが、どうせ互いに知らない者同士なのだ。
話したところで問題はないだろうと思った。
「私の名前は、イオアンナ」
石壁の上で両手を重ね、首を少し伸ばすようにして、城壁の外にいるジェフリーへ声を届ける。
「宴に出たくなかったから、ここへ風に当たりに来ただけ」
彼女はため息をついた。
「あなたには分からないかもしれないけど、王宮の宴って本当に退屈なの……」
その名を聞いた瞬間、ジェフリーはすぐには答えなかった。
俯き、ほとんど風にさらわれてしまうほど小さな声で、そっと繰り返す。
「イオアンナ」
何かを確かめているようだった。
あるいは、その名前を自分だけが知る場所へしまい込んでいるようだった。
指先が止まる。
琥珀色の瞳の奥で、何かがひそかに動いた。
だが彼はすぐにそれを隠した。
表情は変わらず穏やかで、唇の端がわずかに動いただけだった。
何かを抑えているかのように。
しばらくして、彼は口を開いた。
「アンナ」
そう呼んでもよいかとは尋ねなかった。
ただ、その名が最初から彼女のものであったかのように、ごく自然に二文字を口にした。
再び顔を上げる。
視線が石壁の上で重ねられた彼女の手へ落ち、それからゆっくりと顔へ戻った。
「王宮の宴か」
驚くのではなく、与えられた情報を咀嚼するように、静かに繰り返した。
「つまり君は、城の中から抜け出して、誰にも顧みられないこの古塔まで風に当たりに来た」
問いかけではなかった。
ただの確認だった。
一拍置き、彼は続ける。
「俺は王宮の宴なんて出たことがない」
声は相変わらず穏やかだった。
そして最後に、独り言のように付け加える。
「だが、ああいう場所には、それぞれ別の思惑を抱えた人間が集まるものだ。退屈だと思えるなら、まず自分は安全だと思っていなければならない」
それ以上は何も言わなかった。
彼女の反応を見ることもなく、視線を頭上の月へ戻す。
言葉だけが、二人の間へ静かに残された。
アンナと呼ばれた瞬間、彼女の身体がわずかに揺れた。
「そんなふうに呼ばれたの、初めて」
そう言って、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「この塔はね……」
辺りの景色を見回しながら、彼女は続けた。
「何もかも嫌になったとき、よくここへ来るの。だって……今のところ、ここには誰も目を向けないから」
ある場所を指差す。
「ほら。ずっと誰も修理に来ないのよ」
少しのあいだ黙り込んだ。
「それに……宴のことも、あなたの言うとおり。みんな取り繕ってばかり」
「みんな取り繕ってばかり」という言葉を聞き、ジェフリーは小さく笑った。
嘲る笑いではない。
まさに核心を突いた言葉を聞いた者が、思わず漏らしてしまった笑いだった。
彼女が指差した方向へ視線を向ける。
確かに、その一角はまるで手入れされていなかった。
石の隙間には名も知らぬ雑草が生え、塔の手すりも一部が欠けている。
彼はわずかに眉を寄せた。
何も口にはしなかったが、その状態を心の中へ記憶した。
やがて視線を戻し、再び彼女を見る。
彼女は石壁の縁にうつ伏せになり、風に髪を乱されていた。
顔に浮かんだいたずらっぽい笑みのせいで、「王女」という言葉からはあまりにもかけ離れて見える。
むしろ、ようやく誰にも見つからない巣穴を見つけた小動物のようだった。
ジェフリーはしばらく彼女を見つめていた。
瞳の底で、何かがゆっくりと沈んでいく。
水面へ落ちた石のように。
「そんなふうに呼ばれたのは、初めてか」
彼女の言葉を静かに繰り返す。
「なら、これからもそう呼ぶ」
あまりにも自然な口調だった。
提案というよりも、すでに決まったことを告げているように聞こえた。
夜風がまた向きを変えた。
彼は横を向き、再び乱れた深い褐色の巻き髪を、今度は片手で無造作にかき上げた。
左額の古い傷が一瞬だけ見える。
塔のことを問い詰めることはなかった。
先ほどの宴の話を続けることもなかった。
ただ黙ったまま、彼女と同じ月明かりの中にいた。
まるで、もともとこの場所に属していたかのように。
あるいは、どこにも属していないかのように。
放浪する者にとって、その二つに大した違いはなかった。
ジェフリーが言い終えると、アンナは塔の上で慌ただしく左右を見回し始めた。
何かを確かめているらしい。
「大変。もう行かなくちゃ」
風で乱れた髪を手で払いのける。
ジェフリーにもう一言告げる暇もなく、彼女は踵を返し、そのまま塔の上から姿を消した。
ジェフリーは、石壁の向こうへ消えていった人影を見送った。
引き止める声は上げなかった。
ただ顔を上げたまま、しばらく彼女のいなくなった場所を見つめている。
月明かりが石壁を照らしていた。
そこにはもう何もない。
最初から彼女など現れなかったかのようだった。
彼はゆっくりと視線を下ろし、膝の上に置かれた自分の手を見る。
指先が一度だけ動き、再び止まった。
その姿は城壁の一部になったかのように、深い沈黙の中へ沈んでいた。
やがて彼は立ち上がった。
急ぐ様子はない。
彼のすることは、いつもそうだった。
急がない。
服についた草を軽く払い、木のそばにつないでいた黒馬へ歩み寄る。
足音を聞いた馬が、静かに尾を振った。
ジェフリーは馬の首を撫でたが、すぐには跨らなかった。
馬のそばに立ったまま、もう一度だけ古塔を見上げる。
頂上には誰もいなかった。
風がすべてを吹き散らしてしまった。
元の場所に残っているのは、月だけだった。
暗がりの中で、琥珀色の瞳が静かに光っている。
長いあいだ燃え続けながら、その熱を決して見せない、小さな炎のようだった。
喉がわずかに動く。
けれど結局、何も口にはしなかった。
彼は馬へ跨った。
手綱を握り、落ち葉を踏みながら進んでいく。
だが、遠くまでは行かなかった。
木立の奥で馬を止める。
城へ背を向けているようでいて、完全には背を向けていない。
「アンナ」
暗闇の中で、彼はその名を小さく呼んだ。
聞いている者はいない。
誰かに聞かせる必要もなかった。
名前はしばらくのあいだ、彼の舌の上に残った。
何かを確かめるように。
あるいは、自分自身へ告げるように。
明日も、ここへ来る。

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